1984年
+ JANUARY
 ライブ・アルバムのミックスダウンとニューアルバムのプリプロダクションを同時にスタート。レコーディングに備えて猛リハーサル。そのスケジュールたるや…、「死にそう!」(アンディ) 毎日昼の12時から6時までみっちり練習した後、8時から明朝の6時までスタジオで音合わせ。その合間にも雑誌のインタビュー。
 (ロンドンに来て2年)もーすっかり慣れた。今じゃロンドンが自分の街みたいな感じがする。イギリスでは本当にいいファンがついてくれたと思う。(2年前の自分と変わった?) 少しはそーかも。ハノイの最初の頃は住む所も無い暮らしだった。それでも、やっぱり僕は歌うのが好きだったし、ロックンロールから離れて生活できなかったから、どんなに辛くてもそれが支えだったと思うんだ。2年間を振り返ると、すごく早かった。」(マイク)
FEBRUARY
 レコーディングのために初めてニューヨークへ。
MARCH
 オーバーダビング作業のため、ロックンロール・プロデューサー、ボブ・エズリン氏の住むカナダ・トロントへ。「ボブは同じような人間で、ノリがあった。ふつうのプロデューサーが俺達を引っ張りまわしたら、首にするところだけど、ボブだったからトロントまで行った」(アンディ)
 ニューヨークにて、マイクはボイスレッスンも受け、ハノイロックス全員ミュージシャンとして大きく成長した。
 終了後、予定されていたライブのためにカナダ・ヴァンクバーへ。が、スウェーデンより寒いカナダでバンド全員風邪により体調不良、普段はこれ位でもステージに立っていたが、ラズルはスティックを持てないほど具合が悪く、ハノイにしてはめずらしく、ライブをキャンセル。
 NYに戻る途中のボストンで1回ライブをこなしてから、ニューヨーク"Danceteria"で2本のライブを行う。そして、バンドはロンドンへ帰る。が、病欠のため"Don't You Ever Leave Me"の語りと"Boiler"のコーラス部分の録りが残っていたラズルは文句を言いつつも、一人レコーディングのためトロントへに向かう。
 ロンドンに戻る。その際、アンディのギターが盗まれる。レコーディングに使った'68年製の黒いレスポールとエピフォンだった。「盗んだ奴を見つけたらぶっ殺してやりたい。俺だけじゃなくミュージシャンってのはそれでメシを食ってる。それに楽器をすごく大切にしてる。自分の子供のように。それをそんな遊び半分に使ったり、売り飛ばすために盗んで行く奴は許せない」(アンディ)
アルバム『Back to Mystery City』北米とカナダで発売。
APRIL
 ロンドン郊外で"Up Around The Bend"のプロモビデオ録り。夕刻から次の日の朝まで収録は続いた。「ロックンロールに年令なんて関係ないってことだ。多くの人は大人になったらロックを好きじゃなくなる。俺達はそれは違うっていいたいわけ」(アンディ)
ライブアルバム『All Those Wasted Years... 』 フィンランドで発売。
  ハンブルグを皮切りに約1ヶ月の全欧ツアー
MAY
ライブ・アルバム『燃えるロンドン・ナイト』 2枚組みLP が5月10日来日記念盤として発売。
 5月11日 ジャパンツアーのため日本再上陸。『燃えるロンドンナイト』(ライブアルバム/ビデオ)発売と『ミステリーシティー』の好評も重なり、日本で はバンド野郎も含めファンが急増。初来時は女子ファン中心でアイドル視されていたところもあったので、こうしてバンドが正当に認められたことを実感し、喜ぶハノイロックスは自分たちの成長を確信していく。
★Japan Tour '84★
14日 東京・中野サンプラザ
15日 大阪・毎日ホール
16日 福岡・電気ホール
17日 名古屋・市公会堂
18日 東京・芝郵便貯金ホール
19日 東京・渋谷公会堂

84年来日初日セットリスト
Two Steps From The Move
Oriental Beat
Mystery City
Cutting Corners
Underwater World
Motorvatin'
Blvd. Of Broken Dreams
Mental Beat
Until I Get You
I Can't Get It
Don't You Ever Leave Me
Tragedy
Malibu Beach Nightmare
Taxi Driver
Up Around The Bend
High School
I Feel Alright
*****
Train Kept A Rolling
Under My Wheels
  目を見張る成長ぶりに充実のライブでロックシーンに新たなステータスを築きつつあると各紙絶賛。
  この後予定されていたアメリカ西海岸でのツアーは、何らかの理由で急遽延期。
Fallen Angelsのアルバム『堕落した天使達』5月21日発売
JUNE
  全英ツアー。このツアー27日のノッティンガムのライブが後にビデオ化で発売。
シングル『Up Around The Bend』発売。
AUGUST
  『Up Around The Bend』だけで多種類のシングルが発売。(イギリス盤)
  - ノーマル7"シングル:B面『Until I Get You
  - 特別限定ペーパータトゥー付き7"シングル 限定5000枚
  - 12"シングル:B面『Back To Mystery City/Until I Get You/Mental Beat
  - 2枚組7"シングル、(All Those...より)『Until I Get You/I Feel Alright/ Under My Wheels/Train Kept A Rollin'』を収録。

  レディングフェスティバルに出演予定がレディング自体が中止になる。
SEPTEMBER
  アンディがアリス・クーパーと曲を作るために渡米。曲はアリスのアルバム用だったけど結局発表されなかった。
  アルバム『Two Steps From The Move』 9/1日本先行発売。
イギリスでは
Underwater World/Shakes、Malibu Beach Nightmare(Calypso Version) 』や
Don't You Ever Leave Me 』などが7"、12"で発売。

  アンディとサミは当時はまっていたフラメンコを勉強しに以前から行きたがっていた スペインで休暇。
OCTOBER
  9月26日と10月1日の2回 、"Space Faggots" の名前でウォームアップのため、The Babysittersのオープンでシークレットギグを行う。
 アルバムTwo Steps From The Move 』 10/8イギリス発売。同梱限定ブックレットの表紙は、ロック漫画家志摩あつこさんによる書下ろしマンガ。
  10〜22日 ジョーニー・サンダースと13回の全英ツアー。
NOVEMBER
  10月末〜11月12日 2週間のスウェーデン・ツアー
  11月14日アメリカへ渡る。5月から延期になっていた西海岸ツアーは全米ツアーに規模を拡大。東から西へクラブサーキットがはじまる。12月20、21、22日のマーキー・ライブ直前まで全米ツアー。
Don't You Ever Leave Me/Oil And Gasoline、Malibu Beach Nightmare(Calypso Version)』イギリスで3Dピクチャー版12"シングル発売
DECEMBER
Underwater World/Oil And Gasoline ,Shakes/Magic Carpet Ride』12/5 限定ミニアルバム日本発売。
ライブ・ビデオ『燃えるロンドン・ナイト 』日本12/10発売。
 ハノイロックス初の全米クラブサーキット。東海岸からツアーは始まる。「信じられない位に最高の出来だった.悪かったショーなんて一回も思い出せない。」(ナスティ)
「どのショーもホント最高だった。まるで経験したことが無いくらいいい出来だった...俺達は燃えていた。幸福の絶頂だった。」(アンディ)
 シラキュースでのライブ中、マイクがドラムライザーからジャンプ、ちょうどそこへ歩いてきたアンディと衝突、マイクは足首をひねり骨折。その後、負傷した足 をかばい痛みをこらえながら、いつもと変わらぬアクションで各地(トロント、シカゴ、クリーブランド、デトロイト)でライブを行う。
 しかし、マイクのケガの症状は悪化、 アトランタでドクターストップがかかり、予定されていた以降のライブはキャンセルされた。
 それならば、その分はプロモーションやインタビューにあてようと、マネージメントがLAに取材をブッキング。アメリカではアルバム『Two Speps From The Move 』のセールスやMTVでいいリアクションを得ていた。
 ロンドンの親友レイに宛てられたラズルからの絵ハガキ。
 「12月3日 New York こっちは楽しんでるよ。地獄の寒さNY。でも来週はカリフォルニアの太陽! ラズルより」
 (レイはケラング紙 Pandoraのマンガを描いている、元Marionetteのメンバー。ハノイ加入以前からの親友で、ラズルが惚れ込んだあのハノイのギグを見に一緒に連れだった仲。)
 12月7日 彼らはLAに降り立った。
 そして、翌日。この年の夏、ドニングトン・フェスティバル(UK)出演したモトリー・クルーと意気等合していたハノ イのメンバー達は、トミー・リー宅に招かれた。ケガをしているマイクを除いて2つのバンドが集まりパーティは盛り上がっていた。
 ヴィンスとラズルは買出しのためスポーツカーで出かけて行った。ロサンゼルス、レドンド・ビーチ、ヴィンスの乱暴な飲酒運転はコントロールを失い車は反対 車線へ、対向車と正面衝突。巻き添えになった他1台の同乗者は麻痺状態、助手席に乗っていたラズルともう1台の車の運転手は最悪の結果に...。事故後、 泡だらけのビール瓶を手に車の脇に立っていたヴィンスが「全然 大丈夫(everything's OK)」と言ったのが目撃されている。

 1984年12月8日 土曜日。この6日前の12月2日、シカゴのステージがラズルの誕生日で、オーディエンスがハッピーバースディを歌い、ラズルが24歳になったことを皆で祝った。LAのカークラッシュが彼から彼の全てを奪い取った。そして、彼を愛する全ての者達から大好きなラズルを奪っていった。
 当然ながら予定されていたハノイロックスの以後のスケジュールは、全てキャンセル。数日後ロンドンへ戻り、ラズルの実家ワイト島で葬儀はしめやかに行われた。墓石にはイギリス時間により12月9日と刻まれている。
   「ラズルはずっとLAに行きたがっていた。LAは世界で一番素晴らしい所だって思っていたんだ。その夢も叶い、死の直前まで楽しい時間を過ごせたんだから...」(ハノイロックス・スポークスマン)



1985年
JANUARY
 1月3-4日 フィンランド。以前からスケジュールされていたライブが、ラズルの追悼公演になってしまった。これはEurope-Go-Goという正月テ レビ番組の一部で、ライブ中継にて全欧に放映された。ライヴ中、特に『Million Miles Away』がラズルの思い出に捧げられた。ハノイロックス最後のライブ。
 ラズルと共にハノイのリズムを支えていたサミが、このステージを最後にバンドを脱退、スペインに移住。アメリカツアー以前から、サムはバンドを離れたがっていたが、遂に決断。「誰か他の人間とプレイすることなんて考えられなかったから抜けたんだ」(サミ)
 このライブからクラッシュ、ジョニー・サンダーズと共にプレイしていたテリー・チャイムズが、ドラムを担当。
 アンディは3週間の休暇のためスリランカに向かい、ナスティも休暇を。「俺は逃げたした。耐えられなかったんだ。でも1ヶ月スリランカに滞在してもっとひどい状態になって帰ってきた。ひどいヘロイン中毒になっていた。」(アンディ)「辛かった。俺はアルコールに溺れ、長い間感情も持てないようになった。自分の感情が理解できるようになったのはその2年後くらいだった。俺はもうろうとした状態にあったよ」(ナスティ)
FEBRUARY
 マイクはロンドンで数本のインタビューに応じる。
 - ソロ・アルバムを創るアイデアなんてある?  「それはありえない! ハノイロックスというバンドが僕にとって総てなんだ。僕自身、一緒に楽しめる仲間と演るという事が何よりなんだ。」
 - ラズルのことで悲しんでいるファンをあなたの言葉で慰めて欲しいの  「みんな、ラズルのことをいつまでも忘れないでいて欲しい。とても悲しいことで、僕達も長い事泣いていたんだけど...どうかいつも幸せでいて、顔を上げて前向きに生きていってください。また、日本でみんなに逢えるのを僕達は楽しみにしてるから。」
MARCH
 アンディがホリデー中、マイクとナスティはテリー・チャイムズとベース候補者(元Idle Flowersのレネ・バーグ)で、次のアルバムのためにデモ作りやリハーサを行う。この時のデモはコンピレ―ションアルバム"Lean On Me"に収められ1992年に発表。
 「ラズルの死は僕の私生活にもすごく影響した。親友だったから。一緒に住んでたし、いつも一緒だった。今になって「もーいないんだ」って…、悲しいよ。ラズル無しの人生は寂しい。でも、やってくさ、ラズルの分も。」(ナスティ)
MAY
 ポーランドへ1週間のツアーに。この19日のライブは、同年9月にオフィシャル・ブートレグ・ライブアルバム『Rock'N'Roll Divorce』として限定盤で発売された。
 こうして、バンドは前に進もうとデモを作り、マネージメントに急き立てられるようにツアーに出た。マネージメントは、新メンバーとはうまくやっていると言い続けていたが、現実は全く違っていた。ポーランドで最悪の雰囲気でライブを終了後、レネはくびに。
 帰国後、予定されていたライブをキャンセル。「サム・ヤッファに代わる後任ベーシストが見つからないため」と発表。マイクは「バンドを辞める、ハノイロックスの名前はもう使わないで」とマネージャーに話した。
JUNE
 6月9日 ハノイロックスは正式に解散声明を発表。
 「僕達にとってハノイロックスとしての5年間はとても素晴らしかった。でも、ラズルの死と、サミの脱退後にやってきたことには誰も満足できなかった。誰も全くハッピーじゃなかった。総てにおいて、僕達についてきてくれた皆にはお礼を言いたい。」
 マイク・モンロー、アンディ・マッコイ。






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