The Rolling Stonesくらいにトラディショナルで
New York Dollsくらいにグラマラスで
Sex Pistolsくらいにエネルギッシュで
生なロックバンドを作りたかった。



1977年−1980年
  フィンランドの首都ヘルシンキで、Antti Hulkko a.k.a. Andy McCoyMatti Fagerholm a.k..a. Mike Monroeは出会う。 2人ともに15歳。
  2人はお互い違うバンドに参加していたが、リハーサル・ルームが隣だったことから話をするようになり、音楽の話で意気投合、マイクはアンディの曲が気に入っていた。アンディのバンドに興味を持ったマイクだったが、アンディは「バンドに入るならその長い髪は切れ」と言い放った。このバンドがフィンランド初のパンクバンドBriardだ。マイクはアンディに教わり、彼にもらったハーモニカを吹き始める。
  1977年、Briardは、Pete Malmi (Vo.)(2007R.I.P.), Antti Hulkko a.k.a. Andy McCoy (G), アンディの兄Ikke Hulkko (B)により結成、沢山のライブを行ったが'79年解散。その間4枚の7インチシングルを発表。メンバーがよく入れ替わっていた"Briard"には、アンディの学校(アンディは12歳ですでに学校をやめていたが)の友達Jan Stenfors a.k.a. Nasty Suicideも79年に参加。アンディの代わりに1枚のシングルでプレイしただけだった。
  マイクはこの頃いろいろなバンドとプレイしている。

1979年
 マイク17歳、母親に学校に行かないのなら家を出るように言われていた。バンドをやりたい一心から家を飛び出し、アンディの誘いもありストックホルムへ。アンディの考えたバンド
The Nymphomaniacsに加入。("It's too late (原題"'79 not '58") "はこの当時書かれた。) このバンドはマネージャを名乗る知人から金銭的被害を受け、その立て直しに苦労したが、数回リハーサルした後まとまらず終わる。
 この当時のことをアンディは...「俺とマイクは史上最高のバンドを作らなければいけないと心に決めたんだ。76-77年にはもうそのつもりだった。ずっとミュージシャンを捜していた。なかなかバンドが実現しなかったのはハシシをやり過ぎていたせいだろう」
 マイクはまたアンディと必ずバンドをやろうと思いながらも、ヘルシンキへ戻る。そして、アンディから"大抵は飲んでばかりいた"ナスティ(まだ17歳!)を紹介され、バンドを組む。

1980年
 アンディは当時北欧で人気のパンクバンド Pelle Miljoona Oy (ペレ ミリョオオナ オイ) に誘われ加入するものの、ゴールドディスクを獲得したアルバム『Motoritie on Kuuma』のみの参加にとどまる。成功しているバンドを辞めるのは馬鹿げていると言われつつも、つまらなくなってきたから脱退。その時、このバンドのベースプレーヤーがSami Takamäki a.k.a. Sami Yaffa16歳。
JUNE-JULY
 マイクとナスティは3人のフィンランド人と共にバンドを組み、ストックホルムでアンディと考えていたバンド名をつけた、"HANOI ROCKS"
  「バスの中だった、アンディとバンド名を考えていた。チャイニーズロックス、ハノイロックス、どっちもヘロインの名前だよ。チャイニーズロックスはJ.サンダースの歌でもう使われているし、ハノイロックスっていうのがかっこいいからそれに決めた」(マイク)
 ハノイロックスはフィンランドで10回ほどギグをやった。そのギグを見にきたアンディがギグのあとやって来て、「最高のバンドだよ! 俺もまだ一緒だよな? なっ、そうだろう?」
 アンディと再出発するためにストックホルムを目指す。アンディはマイクに言った「今度は成功させような」。 最初の3人のメンバーとは音楽的意見の違いからバンドはすぐ解散していたので、アンディが加わることでHanoi Rocksというバンドは本格的に始動した
SEPTEMBER
 ヘルシンキにて自費制作で『I Want You/Kill City Kills』をレコーディング。当時すでに有名であったアンディの名を表に"Andy McCoy's Hanoi Rocks"でリリース。
 彼らの馴染みのレコード店が彼らの音を気に入り、レコード会社の偉い人を紹介してくれ、フィンランドのレーベルJohannaと契約まで交わすことができた。
 マイクとナスティは再びストックホルムへ。ベースには、その頃アンディがやっていた"PAIN"というパンクバンドのメンバーでマイクの友達でもある人を呼ぶはずだった。しかしながら、アンディが彼の電話番号のメモを無くしたことで、サミをバンドにいれる。そして、古い友人のジップ・カジノを仮メンバーとしてドラムに迎え入れた。
  ストックホルムに移ったマイク、ナスティとサミは、金も知り合いも無く、ホームレスに。当時をナスティは...、「リハーサル室は地下鉄の駅の中。駅は真夜中になると閉められるので、閉まる直前に忍び込み隠れた。警備員が帰るのを待ってアンプに電源を入れ何時間もプレイした。朝になったら公園とかへ行って眠るんだ」または、女の子の所に泊めてもらったり、万引きや物乞いで食い継ぎつつの6ヶ月が経つ。英語をしゃべりアメリカ人の振りをして女のとこに転がり込んだ。着るものは女から盗んだりしてたらしい。 
 一方でアンディは、GFの家族の家で優雅に暮らしていた。冬に近づく頃、彼女の両親を通してマイク、ナスティ、サミはやっとフラットを借りる。レゴ・ブロックのような建物群の1つ、青い13階建の12階。家具など何も無い部屋だった
NOVEMBER
シングル盤『I Want You/Kill City Kills』発売
DECEMBER
    初の正式なフィンランド・ツアー
をスタート。
ハノイロックスのファーストステージは1980年12月31日のカウントダウン・ライブ。ステージを降りたときが1981年1月1日だった。

 

1981年
JANUARY
 ヘルシンキでのHANOI ROCKS メインアクト・デビューは殿堂Tavastia Club。ライブは成功、プレスを賑わせた
FEBRUAY
 ストックホルムで1stアルバムのレコーディングを開始。1ヶ月弱で仕上げる。アンディとマイクがアルバムをプロデュース。クレジットにはproduced by MUDDY TWINSとある。ストーンズのミックとキース"Glimmer Twins"をもじったのだ。
7"シングル盤『Tragedy/Café Avenue』発売
◆カフェ・アヴェニューはストックホルムにあったゲイの溜まり場だったカフェの話。アンディ曰く「俺は体を売っていた」「ストックホルムの中央駅で男を買った」とか。事実は不明だが、そうして人が驚くのをアンディは面白がっていた。日本ではハノイは男娼だとの噂が、見かけからあっさり信じられたりした。
 アルバムのタイトルはフィンランドのプログレ・バンド"WIGWAM"のソングライターである、ジム・ペングローグが『 Hanoi rocks, Bangkok shocks, Saigon shakes, Hanoi Rocks 』と冗談で言ったのをアンディが思い出し採用。当時、ジムは彼らのために『 Saigon Shocks 』と言う曲を書いたが結局は"HARRIGANES"というバンドがプレイする。◆
MARCH
1stアルバム『Bangkok Shocks, Saigon Shakes』フィンランドとストックホルムで発売。
 精力的かつ勢力的なライブ活動でアルバム売り上げアップ。
7"シングル盤『Desperados/Devil Woman』発売。
 コンスタントにギグを続け、1stアルバムのリリース直後からハノイロックスはスカンジナビア諸国で人気バンドになる。
OCTOBER
 さらに、インターナショナルなバンドを目指し、保守的なスカンジナビアを脱出、ロンドンへ。サポート・アクトとして6回のライブを行う。「ハノイはインターナショナルなバンドになると信じていた。フィンランドのバンドが世界というマーケットで成功を収める...、これは本当に大変なこと。でも、俺たちはいつかきっとビッグになれる...。いつもそう自分に言い聞かせてきたんだ」(アンディ)
 フィンランドに戻り『Dead By Xmas/Nothing New』をレコーディング。
NOVEMBER
 ロンドンで2ndアルバム『Oriental Beat』のレコーディング開始、さっさと仕上げる。GYPが殺人的スケジュールなどにより精神的に辛くなってきた時期でもある。終了後、ロンドンのクラブ"Greyhound" "Moonlight Club"で計4回のギグを行うが、客は10人程度。このうち1つはショーケース・ギグ。ここで、リチャード・ビショップと出会い、その後、彼はハノイロックスの敏腕トータルマネージャーとなる。
7"シングル盤『Dead By Xmas/Nothing New』フィンランド、スウェーデンで発売。
  DECEMBER
 50日間48回ライブのツアーをスタート。

 

1982年
FEBRUARY
2ndアルバム『ORIENTAL BEAT』発売。
 スカンジナビアで大ヒット!イギリスでも取り上げられ始めるが、裏ジャケのデザインに激しい非難が...。
APRIL
 アルバムのプロモーション、ライブのため再びロンドンへ。レコード会社の関心が高まるが、多くのメジャーレーベルは「ヘヴィメタルかディスコポップかどちらの音にしろ」と言う。「余計なお世話だって言ってやった。俺たちにあーしろ、こーしろなんて言わせるもんか。他の奴らの意見なんてどうでもよかった。だから誰も俺たちとは関わりになりたくなかったのさ」(サミ)
 ロンドンで"Lords Of The New Church"のサポートライブ後、ライブを見たある野郎が一人楽屋に現れ、「すげーいいバンドじゃん!最高!でも、ドラムがひでぇ。俺がここのドラマーやるべき」と一撃かます。これがNicholas Dingley a.k.a. Razzleだった。「へー、そう。(こいつ、すごい神経してんな)」とマイクは思っていた。
MAY
 ロンドンでサポート・アクトライブを行ううちに、ロンドンでも彼らの評価が高まって行く。日本では、日本フォノグラム(現:ユニバーサル)と契約。
7"シングル盤『Love's An Injection/Taxi Driver』スカンジナビアで発売初のNO.1を獲得。
12"シングル盤『Love's An Injection/Malibu Beach Nightmare(Calypso) /Taxi Driver/Problem Child/In The Year '79』発売
JUNE
 ロンドン"VENUE"で初のヘッドライナー・ギグ。フィンランドに戻り幾つかのフェス出演。
JULY
 ロンドンの外れ南西地区にあるTooting Becにフラットを借り、イギリスでの生活が始まる。その後、マーキーで憧れのジョニ-・サンダースのオープニングを務め、そのライブが終わると、「マイケル! ドラマーはどこだ!」「(またかよ)」「奴の足へし折ってやるぜ」「???」「お前のバンドは素晴らしい。でもドラマーがダメ、俺がやる!」「(どっか行ってくれよ)」 それから、ラズルは彼らとつるむようになり、バンドの考えについて来られなくなったジップに変わり、オーディションを経て8月、ラズルは正式にハノイロックに迎え入れられた。そのラズルのスピリットがハノイに新たな活気を与えてくれた。
 日本では音楽雑誌に注目の新バンドとして紹介され始める。
SEPTEMBER
 ラズルが加わりパワーアップしたHanoi Rocks、フィンランド・ツアーで大暴れ、オーディエンスの方も暴動になりそうな程の熱狂ぶり。新メンバー加入を祝した初日ライブ後のステージでは、バンドに破壊された機材が...。「これは悪魔の巣窟か? 俺はこのバンドのエンジニアになったことを後悔した」と語ったのは当時のエンジニア、ミック。しかしながら、彼は解散までHanoiの大騒ぎに付き合うことなる。
ファーストアルバム『白夜のバイオレンス』9/25日本発売。
 ジャケットは日本仕様で、それはマイクの刺青をモチーフにしたHanoi Rose。
7"シングル盤『白夜のトラジディ/ネバー・リーヴ・ミー』日本発売。
 「俺らの音楽って、音はどんなにヘヴィでもメロディーはすごくきれいだと思う。メロディが何より一番必要だよ。それに長ったらしいギターソロは嫌いだ」(アンディ)
OCTOBER
 The MeteorsやTwisted SistersのサポートでUKツアー。
NOVEMBER
アルバム『Self Destructions Blues 』フィンランドで発売。
 クリスマス商戦にあわせて(というか、バンドが知らないうちに)コンピレーションアルバム『Self Destructions Blues』北欧で発売。イギリスでも、北欧からの輸入盤が発売されて話題になる。
 Marquee Club
の常連となりKerrang!等雑誌で評価され、ライブでファンを増やして行く。
DECEMBER
   フィンランドでクリスマス・ライブ



1983年
JANUARY
アルバム『オリエンタル・ビート』が来日記念盤として1/25日本で発売。
7"シングル盤『炎のドライビン(Motorvatin')/デビル・ウーマン』発売。
 ロンドンから南回りでインド、タイ、ホンコンを経由して日本に到着。ハノイロックスはニューデリーでライブを行った初のロックバンドとなる。インドのオーディエンスの興奮はけた外れ、ライブはえらい騒ぎとなる「精神的にもとても盛り上がったライブだった」とアンディ。
 この後、香港でプレイしたのち29日、日本へ降り立つ。

★Japan tour '83★
1月30日 東京・渋谷公会堂
1月31日 大阪・毎日ホール
2月3日 名古屋・名古屋市公会堂
2月5・6日 東京・郵便貯金ホール
 当時来日アーティストのコンサートは主に武道館やホール、現在のようなスタンディング・ライブはほとんど無かったため、ハノイロックスのライブも全てホール。 しかし、会場は半分も埋まらなかったのだ。
 イギリスと日本のオーディエンスではかなりの違いがあるから、戸惑わなかった?  「イギリスのオーディエンスは皆飲んだくれてみているけど、日本はそんなこと無いし、むしろ礼儀正しいよ」(アンディ)。日本のファンは大半が女の子で黄色い声援が…。「いいねぇ」(マイク)「俺は大好きだぜ、スクリーミングが。俺らのギグではもっと叫んでくれよ」(アンディ)
初日セットリスト
  • Oriental Beat
  • Lost in the city
  • Lightin' Bar Blues
  • Visitor
  • Motovatin'
  • Don't Follow Me
  • Village Girl
  • Ice Cream Summer
  • Beer & Cigarette
  • Don't You Ever Leave Me
  • Tragedy
  • Malibu Beach Nightmare
  • M.C. Baby
  • Cheyenne
  • Taxi Driver
  • Back To Mystery City
  • I Feel Alright
    * * * * * 
  • It's Too Late
  • My Generation
  • T.C.P.
  • Looking At You
    (すでに次のアルバム予定曲から3曲をプレイ)
 ステージでは非常にアクティブだけど、終わった後かなり疲れるんじゃない?
 「動きって別に練習するわけじゃないし、ステージの上では感じるままに動くだけ。 もし、何にも感じなかったら、そりゃ疲れるだろうけど。ステージでは時々失神する こともあるんだよね(笑)」(マイク)「俺も(笑)」(アンディ)。2月9日、日本ツアーを終えてバンコクへ、ライブと数日間のオフを取ってロンドンに戻る。
2月下旬
 憧れのモット・ザ・フープルのメンバーにプロデュースを依頼し、ニューアルバムのレコーディングを開始。
APRIL
 イスラエルで数回ギグ。
アルバム『セルフディストラクション・ブルース』4/25日本盤発売、ジャケットは日本で撮影された写真を使った日本仕様。
May
アルバム『Back To Mystery City』北欧、英国で発売。
7"シングル盤『Until I Get You/Rebel On The Run』フィンランドで発売
7"シングル盤『Malibu Beach Nightmare/Until I Get You』英国で発売。他、12"マキシ・シングル盤とかも発売。
 5月4日-6月6日のあいだに27本のイギリスツアーを行う。
June
 アルバム『Back To Mystery City』が絶賛を浴び、本格的バンドとして評価を高め る。CBSインターナショナルと契約成立。新人にしては破格の"20万ドル契約金"で箔をつける。この契約は世界をカバーするアルバム6枚の契約で、"音楽的規制をされないための自由"も契約で保障させる。
July-August
 スカンジナビアでフェスティバル出演(Ruisrock含む)。そして、欧州ツアー。
 8月26日 レディング・フェティバル初日に登場。
SEPTEMBER
アルバム『ミステリー・シティ』9/5日本発売。
7"シングル盤『マリブビーチの誘惑/愛してほしい(Until I Get You)』9/5日本発売。
 日本でもヒット。グラムロックの雄、モット・ザ・フープルのプロデュースという事もあり、今までハノイを嫌っていた人、知らなかった人からも注目され高い評価を受ける。
 日本のヴィジュアルロック系アイドル(語弊があったらごめんなさい)本田恭章のレコーディングに参加。彼のために1曲『Keep Our Fire Burning』という曲を提供。
OCTOBER
 10月13日-22日 イギリスをショートサーキット、計8本のライブ。
 CBSの紹介でKISS、Alice Cooper等のプロデュースで知られ、彼らが尊敬するボブ・エズリンと会いミーティング。 その後、彼はハノイのライブを見てその場でプロデュースを引き受けることを決める。
NOVEMBER
 マイクとアンディはモロッコに行き曲作りのため数週間滞在するものの、収穫は"Underwater World" の1曲だった。
 一方、ナスティ、サミ、ラズルは Vibrators のKnox(ノックス)とともにセッションバンド『Fallen Angels』のレコーディング。モロッコから戻った二人は "Cosmic Ted(アンディ) " と "Flashing Phychedlic Kid(マイク) "としてちょっと参加。
 「俺は酒を飲んでワイワイ騒いでいただけだ」(アンディ)、「ビールを買いに行ってもらったり」(ラズル)
DECEMBER
 12月19、20、21日 ロンドンのマーキーにて初のビデオとアルバムのレコーディング・ライブ。日本の企画で『燃えるロンドン・ナイト/All Those Wasted Years...』が制作される。
 「日本には1年に1度しかライブにいけないから」(アンディ) 、「これで何回も見れるだろう」(ラズル)

1977-1980年1981年1982年1983年1984年1985年