第7回 ■フエまでの車中にて(ハノイ〜サイゴン統一鉄道)■
後ろ髪を引かれるようにして乗り込んだ汽車の中には小柄な男が座っていて、俺に話しかけてきた。乗客だとばかり思っていたら、フエではどこに泊るのかと尋ねられたので、まだ決めていないと言うと、おもむろにパンフレットみたいなものを取り出して、このホテルはどうだと写真を見せてきた……。No obligationという。フエ駅からホテルまで車で送るという。もし気に入らなければトランスポート代はいらないという……。のど元過ぎて熱さを忘れたわけではないが、またもや、この男が勧めるホテルへ行くはめになってしまったのだ……。
それはさておき、初めてのベトナムの寝台特急に俺はワクワクしていた。同じコンパートメントには二人のアルジェンティーナ(スリムで魅惑的なかわい娘ちゃんと太めのボインちゃん)と中年のフィリピン人がいた。
フィリピン人はトラベルエージェントをやっているビジネスマンだそうだ。ベトナム人のトラベルエージェントに招待されて、フエのホテルの下見に行くところだという。ストレンジな旅行者には見えるが、ビジネスマンにはとても見えない。
二人のアルジェンティーナはフエには行くつもりはないと言っていた。せっかくベトナムの観光をしているのに、世界遺産に指定されている古都フエに行かないなんてもったいない、と言ってやりたかったが、フィリピン人の方がさかんにフエのゲストハウスの勧誘をしているので、俺が口をはさむ余地はなかった。
こいつはゲストハウスの回し者か、それとも人買いか……どうもこのフィリピン人は怪しい。俺は思わず、カメラとウェストバッグは肌身離さず、バックパックは座席の下にしまった。
俺が今いるコンパートメントは一番高いスーパーベッドで、食事も付いている、ということだったが、小さな水のボトルと、菓子みたいなものが二つと、紙のおしぼりが、ビニール袋に入って付いているだけだった。それでも俺はそのうち食事が運ばれてくるものと思って楽しみに待っていた。待てど暮らせど何も出てこなかった。俺は下段のベッドで、上のベッドにはフィリピン人がいる。汽車には一応エアコンディショナーが付き、寝台はソフトスリーパーで、窓際には流しと蛇口も付いているが、2時間位走ったらエアコンディショナーが止まってしまった。コンパートメントを閉め切っているから、暑くて寝ていられない。今までガーっと寝ていたフィリピン人が、上の扇風機を点けたり消したりするから、これがまたうるさくて寝ていられない。腹がすいてきたので、食堂車でもないかと7,8両後ろの車両に行ってみたが、何もなかった。やはり食堂車を探しに行っていた太っちょのアルジェンティーナが、ぶつぶつ言いながら戻ってきた。お蔭で、一晩中眠れなかった。スリムでかわいいアルジェンティーナの寝顔を見ながら安らかな眠りに着こうという俺のもくろみは、もろくもくずれ去ったのだった。
車窓から見える夜空は素晴らしかった。今にも落ちてきそうな星空だった。まさにダイヤモンドダストだ。にぎやかなほどの、星、星、星…… 俺はすっかり星のとりこになって、見とれていた。星といえば、サイゴンへ行く途中の車中からは、昔アフリカで見た、あの南十字星を見た。南半球でしか見えないはずの南十字星が、なぜ北半球で見えたのか?夢かまぼろしか……
だんだん空が白み始めて、朝焼けもまた素晴らしかった。椰子の林、田畑、のどかで平和な田園風景は、タイの車窓から見た風景とあまり変わらない。まだ薄暗いうちから田畑で働く人々、自転車に乗っている人々、朝ごはんの支度をしている人々、のどかな農村の風景は、インドシナ共通なのだと思った。
日本も昔はインドシナのように、穏やかでやさしい田舎の田園風景があったことを、懐かしく思い出していた。そして、それが遠い過去のことになってしまったことをさびしく思った。
こうしてベトナムの風景を眺めていると、かつてここで戦禍があったことなど、信じられない気持ちになってくる。何もなかったような平和な風景が広がっている。結局、戦争や政治の暴力で人民とその暮らしを変えることはできないのだ。もちろん、人民の犠牲は大きい。計り知れない尊い命が奪われ、今もなお、枯葉剤の後遺症に苦しむ人々がいる。そのことを知っているアメリカ人はいったいどれくらいいるだろうか。
あれこれ考えながら、まんじりともせず、汽車は無事、午後3時30分にフエ駅に着いた。二人のアルジェンティーナは、結局フエで降り、フィリピン人の勧めるゲストハウスへ行ったらしい。俺には関係ないとはいえ、少し気になる。何事もなければいいのだが……。
駅にはハノイの客引きから連絡を受けた、ちょっと二枚目の案内人がマイクロバスで迎えに来ていた。ハノイプリンスホテルの教訓があるから、俺は半信半疑でバスに乗った。ホテルに着いて、部屋を色々見せられた。どの部屋もハノイプリンスホテルよりはましで、部屋代も15ドルにまけてもらった。きれいでバスタブも付いているし、ナイスヴューでフエの町全体がみわたせる。ホテルの前には日本人専門のゲストハウス"ビンジュオンホテル"がある。しかし、お迎えの案内人のおにいさんは穏やかでいい人だったが、フロントの女はなぜかまた、ナーバスだった。
日も暮れかかっていた。大急ぎで風呂にはいり、世界遺産の院朝王宮に行くことにした。
つづく
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