第6回  ■フエまでの切符がないっ(クワン少年との別れ)■ 


 今夜9時にフエに向かって出発することになっているのに、俺の手元にはまだ切符がない。あのプリンスホテルのフロント係のナーバスな女は、8時に切符を渡すと言っていた。代金は昨日払ってある。パスポートだって預けたままだ。本当に切符の手配はしてくれたのだろうか。そんなもの頼まれた覚えはないと言ったらどうしようか。急に不安になって、クワン少年に尋ねた。
 「もし、フロントの女が切符を渡してくれなかったら、君がポリスマンを呼んできてくれないか?」と言ったら、驚いたことに「まだ16歳なので自分が放浪罪で捕まってしまう」という答えが返ってきた。どうやら生活のために危ない橋をわたっているらしい。日本の16歳とは大違いだ。最近日本で増えている"ひきこもり"は、第3世界では考えられないことだ。食べさせてもらい、住まわせてもらい、着せてもらっているからこそ、ひきこもれるのであって、第3世界でひきこもってしまったら、餓死することを意味する。クワン少年もひきこもってなんかいられない、生活のために働かざるを得ない、そして時には危ない橋をわたらなければならない、第3世界の少年だったのだ。
 ポリスを呼ぶことはあきらめた。とりあえず、8時までどこかで時間をつぶすことにした。クワン少年と定食屋に入った。そこはベトナム人で満員だった。通された席が、あごひげをはやし、ハンチング帽をかぶった初老の酔っ払いのそばで、俺は少しビビった。赤いプラスチックのコップで何やらうまそうに飲んでいる。俺にも飲んでみろと勧めるので、ためしに飲んでみた。どぶろくのように白く濁った酒で、とても強かった。9時に汽車に乗らなければならないので、俺は味見程度でやめておくことにした。そのおやじに1杯おごろうと思って注文したら、店の人が、それ以上飲ますなと言っているようだった。仕方がないから自分が飲むようなふりをして1杯注文した。おやじにコップを手渡すと、うれしそうな顔をした。
 ポリスマンも入れ替わり立ち代り飯を食いにやって来る。ポリスには一品か二品、サービスでおかずを多く出しているようだった。ポリスマンが入ってくるたび、少年は緊張した面持ちで彼らを盗み見ていた。
 大皿に盛った料理がカウンターの上にずらっと並んでいる。その中から気に入った料理を5〜6品ほど頼んだ。クワン少年は朝から何も食べていなかったのか、俺と酔っ払いのおやじとのやりとりなど全く眼中になく、もくもくとむさぼっていた。あっという間に皿が空になった。彼は遠慮がちに俺の分もちょっとだけ残しておいてくれたのだが、俺はハノイビールをまだ飲んでいたかったので、その分も彼に勧めた。
 日本の厚揚げによく似た煮物がうまかった。まるで、おふくろの味だ。日本を発ってまだ1週間というのに、俺をホームシックにおちいらせるのに十分だった。それほど、うまかった。
 俺はビールを2杯飲み、クワン少年は飯をおかわりし、料理もふたりで結局10皿くらいたらふく食い、酔っ払いのおやじにも1杯おごり、会計はたったの20000ドン(1.4ドル)だった。これがハノイの正当な普通なのだ。ぼられっぱなしの俺には驚きだった。
 いよいよクワン少年ともお別れだ。最後にカフェに行って、お互いの住所交換をした。そして、俺との出会いについて何か書いてくれと頼んだ。彼は最初はとまどった様子だったが、やがて何か書き始めた。あのジャズクラブの時と同じまなざしで書いていた。真剣な、それでいて無邪気できれいな目だった。
 一日つき合ってくれたお礼を彼にしたいと思った。金を渡すのは俺の本望ではなかったが、彼に対する思いを表すのにほかに手段が見つからず、50000ドン渡すことにした。これは彼の3日分の稼ぎ以上であろう。多く渡しすぎて、味をしめ、日本人がターゲットにされるようになっても困るし、こんなところが適当じゃないかと思った。彼はとてもうれしそうな顔をして、受け取ってくれた。そのすぐ後で、「絵はがきを買ってくれ」と来た。日本人の感覚では、金を渡しているのにその上なんで絵はがきを買わなきゃならないのだということになるのだが、15000ドンというから買ってもいいかという気になった。後でわかったのだが、フエで買った絵はがきは彼の絵はがきの半額くらいだった。
 そろそろ8時近くだ。プリンスホテルに乗車券とパスポートと荷物を取りに帰らなければならない。クワン少年とホテルに戻ると、ホテルの前の道で俺を空港から連れてきたコアンとその舎弟がすわって、何やら話し込んでいる。俺が何食わぬ顔であいさつすると、コアンが近づいてきて、俺に耳打ちした。「あの少年は悪いやつだから気をつけろ」!!?
 フロントの女から、無事に切符とパスポートを受け取った。フロントの横のテーブルでは、初老のオランダ人のグループが、ハイネケンビールを10本くらい並べて宴会をやっていた。俺は「このホテルのやつらは悪いやつらばかりだから気をつけろ」と言ってやりたかったが、あまりに楽しそうに大声でしゃべっているので、躊躇してしまった。コアンたちは、またカモがやって来たと手ぐすね引いて待っているに違いない。以前オランダに行って世話になったことがあるので、多少の忠告はしたつもりだったが、彼らに通じたかどうか……
 コアンの舎弟が駅まで送っていこうと申し出てきたが、俺はクワン少年と行くからと丁寧に辞退した。内心は、お前のバイクなんかに二度と乗るものかと思っていた。フロント係のナーバスな女にタクシーを呼んでもらい、クワン少年と共にハノイプリンスホテルを後にした。なんだか少し勝ち誇ったような気がしてきた。
 さあ、明日はベトナム戦争激戦地のフエだ。今までの嫌なことはハノイプリンスホテルに置いて行こう。
 ハノイ駅に着くと汽車はすでに来ており、大急ぎで飛び乗った。クワン少年と兄弟のように抱き合って、別れを惜しんだ。なんだか胸がじーんと熱くなって、涙腺がゆるんだ。彼の目を見ると、こちらの思いとは関係なく、あっけらかーんとしていた。
 さらばハノイ、ありがとう、ハノイの人たち、クワン少年、ジャズクラブのミンさん、まんじゅう売りのおばさん、郵便局のクワンさん……

つづく


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