
2009年8月10日
「フジヤマのトビウオ」古橋広之進さんが亡くなった。8月2日、滞在先の、ローマでの客死であった。
実は2004年(平16)9月の、このコラムで私はこんな原稿を書いている。一部抜粋してみたい―。
その昔、古橋広之進さんにインタビューする機会を得た。終戦直後、「フジヤマのトビウオ」のニックネームで数々の世界記録を樹立した、その人である。水泳パンツの下にふんどしを締め、泳いで泳いで泳ぎまくった。その結果「頭の先が流線形になった。水をかき分けるように、魚の頭のように尖って、手も、指の付け根に水かきのような膜が出来た」。嘘のような話しだが本当である。
8月22日付(注=当時)の産経新聞にこんな記事が掲載されている。「不徳な、つたない私をお許し下さい 敗退の古橋広之進選手」の見出しに目を引かれ読み始めた。1952年(昭27)のヘルシンキ五輪四百メートル自由形で8位に終わった古橋さんが、現地から日本へ向け一通の手紙を投函した。敗退を嘆く文面が続く。
「悲しみに泣かざるを得ません。それにも増して一番つらいのは皆様のご期待の何物にもそい得なかった事です。どうぞ宿命と思ってこの不徳なつたない私をお許し下さい」
「今後は立派な人間として頑張るのみです。西高(古橋さんの母校=旧制浜松第二中学校)からも立派な選手の出現を待ち、この仇(かたき)をとってください」
武器のない戦争、とは五輪の事だが、この文章を読んでいるといかに当時の選手達が国の名誉を背負って戦っていたか、ひしひしと感じさせられる。64年の東京五輪で銅メダル、しかし自ら命を絶った円谷幸吉さんといい、その重圧は計り知れないものがある。
―ところで、流線形になった頭はその後、どうなりましたか?
古橋さんにお尋ねした。
「人生の荒波をくぐっているうちに、いつの間にか頭は丸くなってしまいました。歳をとりましたからね。考え方も丸くなりました」―。
このインタビューは日刊スポーツに入社してからのものではない。学生時代、大学新聞に携わっていたときにお願いして取材させていただいた。1975年(昭50)前後の話である。
もっとも、今回の訃報を伝える日刊スポーツを読むと、古橋さんは少しも「丸くはなって」いなかったようである。「選手はテレビなんかに出ちゃイカン」「チャラチャラした格好で、勝てるわけがない」と頑固親父そのものであったようで、「丸くなった―」とは当時の方便であったようだ。
武骨な、大きな顔を思い出す。冥福を祈りたい。
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2009年8月3日
先日、恩師の墓参りに行ってきた。今年は20回の節目になった。
大学時代の同期生、OBなど、先生にお世話になった人間が遠くは九州、四国、北海道から集まってくる。駅前で花を買い、バスで霊園へ向かう。1年に一度の恒例で、雑草の茂った墓地の掃除をする。終わればその周りで酒盛りということになる。大酒呑みだった先生は、ビールを氷で割って呑むのが好きだった。ビールの水割りを供え、買ってきた焼き鳥をつつく。
先生はある健康上の理由で早々に亡くなられたが、歌人の奥さまはお元気である。足が悪いので墓参りがままならない分、息子さんが代参してくれる。息子さんは日本屈指の、著名な写真家で、我々に交じって酒を酌み交わす。かつての教え子たちの昔話を聞きながら、家では知り得ない父親の実像に触れることとなる。
「おっかない親父だったけど、そんな一面もあったんですか」と目を輝かせる。
実際、面白い先生だった。元新聞記者で、がらっぱちで、人情もろかった。会社の組織が嫌いで、昇進を蹴って大学に来た。
私はこの先生から酒の呑み方を教えてもらった。銀座の、伝統ある店(ただし高級店ではない。値段も安かった)をいくつも紹介してくれた。「社会に出たらこういう店で飲みなさい。付き合っている店の善し悪しで人間が推し量れるものなんだ」と教えてくれた。それらの店は今でもある。ただし、当時の店主は物故、引退で、2代目、3代目が切り盛りしている。
今の会社への入社が決まったとき、神楽坂の料亭で芸者をあげてくれた。三味線を入れてどんちゃん騒ぎをした記憶がある。「こういう場所も一度知っておけば、いざというときに恥をかくことがない」と自腹を切ってくれた。
誰もがそんな、先生の恩恵に浴したようで、思い出話が尽きない。
振り向けばかつての紅顔の美少年、美少女たち? もすでに50半ばになった。皆、酒もすっかり弱くなって、話題は出来の悪い息子らの愚痴と、健康問題である。
「先生も早すぎた。それにしてもあの頑健な先生が病気とはいえ、あっさりと…」とぼやき始めたころ、陽は西に傾き、宴はおつもりとなる。
「じゃあ、ぼちぼち」の声がかかると、誰もがポケット、バッグをまさぐり始めた。次々と錠剤を取り出し、口に放りこむ。「おっ、その薬、高血圧か?」「潰瘍だよ」「これ効くんだよ」「どこで手に入れた?」とひとしきり薬談義に花が咲く。
「先生、呑みすぎるなって言ってたぞ」。
「それって酒のことか? 薬のことか」。
一同の長嘆息に、草葉の陰の先生は笑っておられることだろう。
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2009年7月8日
旨い酒を飲んだ。「島立ち」という名の焼酎で、甑島(こしきじま)の産である。
味はもちろんだが、その酒にまつわるエピソードにしたたか酔わせてもらった。
その一升瓶の、裏側に貼ってあったラベル、能書きを引き写してみたい。
「里中学校三年生が育てたサツマイモを使用。遥か南方からの黒潮に美しく洗われる甑島は、鹿児島県薩摩半島から40キロの東シナ海に位置します。その玄関口里町の里中学校では、三年生になると恒例のサツマイモの植え付け行います」。
「江戸以来の武家屋敷群に初夏の訪れを告げる鹿の子百合が咲くころ、グングン伸びはじめるサツマイモの蔓。イモをおいしくするのは子供たちの丹精と島の気候風土。炎天下の草取りで汗した手に、やがてずっしりとゆたかな実りの秋を迎えます。卒業後、甑島には高校がないため三年生たちは島を離れ進学します。それを甑島では『島立ち』と呼び、子どもたちを送り出します」。
「巣立つ子どもたちの思い出を封じ込めたサツマイモを使用して、手塩にかけた焼酎…。薫り立つ一杯には、ふるさとへの思いが息づいています」。
鹿児島県薩摩川内市に属する甑島は3つの島からなっており、人口は3島で約6000人強といったところである。少子化で小中学校はご多分に漏れず、統合の流れの中にある。
毎年3月の植え付けをし、秋に収穫、地元の酒蔵が醸造して卒業式のころに仕上がる。ラベルにはそのサツマイモに携わった中学生の名前が列挙されている。その数、わずか10人。収穫量によりけりだが、昨年は800本の焼酎が出来上がった。中学生だからもちろん、呑むわけにはゆかない。家族など、関係者などに配られ、保存される。市販はほとんどされない。
毎年1月3日、正月に島では成人式が執り行われる。「島立ち」した子どもたちはそんなときしか島には集結しないのであろう。その時に、満を持して封が切られる。この酒で成人を祝うのである。「島立ち」から5年、少年から大人へ、彼らはどんな人生を送ったろう。大学進学、就職、さまざまな節目を乗り越えて口にする「島立ち」、その味は甘いか、苦いか、しょっぱいか、よそ者の想像を超える。
「勧君更盡一杯酒」。
一升瓶を封印する、その紙帯にはこんな詩が添えられている。中国の詩人、王維が友を送るときに作った。「酒はもう十分だと言うかもしれないが、最後にもう一杯だけ飲みたまえ、友よ」。帯にはないが、付け加えるなら詩はこう続く。
「天地新生気愈盛」。
天地新たにして生気愈(いよいよ)盛んならんことを―島の酒はホロリ、人の心を醸してくれる。この夏の、灼熱に一陣の涼風、であった。
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2009年6月16日
奇妙な人物である。
ピート小林。略歴は「前世紀生まれ。年齢不詳。駐留軍基地と米国で下級労働者、バーテンダー職などを経て広告業界へ。博報堂、電通(なぜかこの時点から一流の職場を得る。そのきっかけは謎である)勤務後、独立」とおおむねこんな生き方である。桜と案山子(カカシ)を追いかけるカメラマンで、コピーライター。生家である教会(クリスチャンだったんだぁ)にはおごそかな十字架が建っている、とか。
酔った勢いで私生活までじっくり聞いたが、記憶の彼方で、とにかく風変わりなおっさんであることは間違いない。
一昨年、連載記事を仕立てる都合で彼と、3泊5日の旅をした。青春18切符を駆使し、車中泊を繰り返し、可能な限り出費を抑え極限に挑む?「同行二人」であった。一人1万円少々の運賃で小豆島、南紀を回った。立ち食いそば、「吉牛」の連発、安酒場で浴びるほど飲んだが、財布はほとんど傷まなかった。「青春」復活であった。
以後、付き合いは続いたが、先日メールをいただいた。本を出版したという。過去にも数冊出しているので驚くにはあたらないが、今回は写真集、それも「案山子」ということでさっそく一冊送ってもらった。実は先の旅行も、彼の案山子コレクションに協力する形で行われたのである。
その時の写真も何枚か採用されている。
「お上社会のこの国では、お上どころか右を見ても左を見ても『百年に一度』を枕言葉にした文言が声高に流伝されている。そもそも百年前を未体験の人々に、詭弁(きべん)のごとく唱えられて、虚実皮膜さが漂い空疎感のみがいや増す国、ニッポンである」。
「戦後の日本社会の空気がすっかり入れ替わって、ある限界に達している。そんな人間界の下、もはや絶滅危機種?に近い田んぼの案山子たちの眼差しの先には、何があるのだろうか」。
いいでしょう、このプロローグ。題して「カカシ・バイブル」(東京書籍刊、1600円)。7年間案山子を追いかけ、昨年だけでも40日40夜、全国110`を走破(そのうち、私も5日間関わっている)、掲載案山子は160体にものぼる写真集になっている。
下町育ちの私には、案山子のある風景は縁遠いものだが、ふっと車窓に映るあの人影は昭和の原風景である。無言の案山子たちのなんと表情豊かなことか。夕日の沈む、地平線にぽつんと立つ一本足。家々に明かりが灯り、食卓を囲む子どもたちの声が聞こえてきそうだ。ノスタルジーではあるが、今、立ち返らなければならないは、後ろ向きではないノスタルジーではないか、なんてしみじみ思いたくなる。
裸にて 生まれてきたのに 何不足――。
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2009年5月28日
高校を卒業して、すぐに就職した。学業不振と素行不良で、大学進学を諦めたこともあったが、早く一人前になりたくて、手に職を付けたかったのである。ある会社の営業担当になり、小さいながらも明るい、活発な職場で気に入っていたのだが、半年も勤めると辞めてしまった。
そんな理由で? と人は笑ったが、実はネクタイが嫌いだったのである。首回りを締め付ける、あのネクタイが生理的に合わなかった。
以後、いろいろあって大学に入学、卒業後に今の会社に入社することになった。幸い、ネクタイ不要(でもないが、特に強要されることもなく)の職場で、今日に至っている。
先日、ある年配の方と一杯やった。きちんと背広に身を固めた紳士である。席に着くなり「ネクタイ、外してもいいかな」と聞かれた。了解すると、スルスルと解き「あー、生き返った」と笑って、ビールをイッキ飲みした。
「まったく、こんなものを何で巻かなくっちゃいかんのかね」と言うから、こちらも昔を思い出して「まったく」と相づちを打った。
やはりネクタイが苦手だったという。ただ、係長に昇進したときに、その時の工場長に飲んだ席で「君はもう管理職なんだから」とくぎを刺された。そして工場長は自分のネクタイをその場で解いて、「これあげるよ。明日から着けてくるんだ」と言った。
「それ以来、ネクタイを手放せなくなってね。義務みたいなもんで、定年、定年延長、年金生活とずーっとネクタイを締めているんだよ。もちろんサラリーマン時代は順調に昇進して会社の幹部にもなれた。ネクタイのお陰とは思えんけどね。ただ、あの時のネクタイはとってあるよ」。
「でも、きっかけを作ってくれた、良い工場長ですね」と言ったら、「それが、しばらくしたら失脚して、どこかの工場へ異動させられた。その後、どうなったかとんとうわさを聞かなくなってね。良い人だったんだが」とつぶやいた。
まぁ、それだけの話で、いつしか話題は別のものに移っていった。
もうすぐ暑い夏がやってくる。最近は省エネと言うこともあって、ノーネクタイが当たり前になった。白の、開襟シャツに袖を通すとき、いつも自分の若かりし時を思い出す。早く大人になりたかったが、その一方で幼心を抱えたままの、妙な感情の入り交じった抵抗感がネクタイを拒否させたのだろうか。今もってよく分からない。
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2009年5月7日
横綱審議委員会によるけいこ総見が4月29日、東京・両国国技館で行われた。けいこを回避する方向だった横綱朝青龍は新小結の鶴竜や栃煌山らと8番の申し合いで全勝。けいこ後に、心臓病で長期療養していた天敵・内館牧子委員のもとへ歩み寄って「心配してました」と握手。これが奏功したのか、内館委員は辛口批判の代わりに、この日の朝青龍を「秀吉のような人たらし」と評した、と新聞にはある。
確かに秀吉という人、人使いの旨さには定評があった。歴史の示すとおりである。
さて、この「人たらし」という言葉、司馬遼太郎さんの『新史太閤記』でみかけたような気がする。一方、記憶が薄らいでしまったが、文藝春秋社発行の雑誌の表紙にたしか、こんな紹介文があった。
「司馬さんは、太閤秀吉の成功を「人たらし」の天才と描きました。
@滴るような可愛げと笑顔
A気配りに満ちた贈り物と接待
B褒め上手
C何よりも人間そのものが好き…
そんな人には誰もが魅せられます」。
もっとも、その司馬さんもかなりの「人たらし」だった。そう言ったのは、司馬さんと親交のあった、作家の田辺聖子さん。
「人間というのはいつも、自分に興味をもってほしいと願っているもの。その願いは、蜜の味のように甘い。司馬さんは人間に対する興味をいつも持ち続け、そういうものを放出し続けた人。司馬さんにお会いする人に、ほてりと熱と愛を与えてくれる人」と回想した。
さて、その朝青龍が日本での永住者在留資格を取得したことを明らかにした。在留期間は無制限となり、在留資格の更新も不要になる。もっとも、これで日本でのビジネス本格化? とひねった記事が目につく。まぁ、これまでのご乱交への意趣返しとでも言おうか。 10日から夏場所。土俵での活躍が何よりの「人たらし」になる。その強さで観客に「ほてりと熱と愛」を与えてくれれば幸いである。
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2009年4月6日
3月下旬、地元の仲間と花見としゃれこんだ。温暖化で開花宣言も出たから、さすがに満開だろうと踏んだのが大間違い。寒の戻りとはこのことで、天気は上々だったが北風が強く、しかも桜は2分咲き程度で、早々に引き揚げた。もっとも、花見は建前で、本音は露天での一杯だから防寒服の襟を立てながら初期の目的は達成した。
桜の名所は数々あれど、作家の池波正太郎さんが愛したのは、上野寛永寺・両大師堂の境内にある「御車返しの桜」だった。この桜は、1本の木に一重と八重の淡い紅色の花が同時に咲く。
そのいわれは、後水尾天皇が京都の常照皇寺に花見に行った折り、その美しさが忘れがたく、牛車を返してもう一度鑑賞したということになっている。後水尾天皇の皇子・守澄法親王が初代輪王寺門主となった縁で、この境内に植えられたようで、江戸名所花暦では28品のサクラの一つとしてあげている。
ここの桜は咲くのが遅い。上野恩賜公園や不忍池周辺の桜がひとしきり咲き乱れ、葉桜になった頃、池波さんは保温ボトルに熱かんを詰め訪れた。陽が傾き、カラスがねぐらに帰るころ、静まりかえった境内でひとり桜を眺め、酒を傾ける。絶景であると、何かのエッセイに書かれていたと思う。
一度、興味本位で訪れたことがあるが、なるほど風情があった。
「花の雲 鐘は上野か浅草か」。
芭蕉の句である。こんな句も残している。
「初桜折しもけふは能(よき)日なり」。
「咲(さき)乱す桃の中より初桜」。
「両の手に桃とさくらや草の餅」。
そうそう、「草の餅」といえば長命寺の桜もち。吾妻橋からひとつ上流の桜橋のたもとの「山本や」。創業1717年(享保2年)、創業者の山本新六は長命寺の門番で、毎日のように落ちる桜葉を塩漬けにして餅に巻いた。
「ねがはくは 花のもとにて 春しなん その二月(きさらぎ)の 望月(もちづき)のころ」。
これはご存じ西行法師。作家・山田風太郎が愛した歌でもあった。
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2009年3月3日
Aさんは都内の、ある私立高校の守衛である。今年で65歳になる。工業大学を卒業後、製造メーカーに就職、無事定年を迎え、現在は年金生活になった。少なかったが退職金も出、マンションのローンも払い終えた。妻と2人暮らしで、2ヶ月に一度振り込まれる、約40万円のそれでささやかに生きてはゆける。このご時世、恵まれた環境といえそうだ。
だからあくせくする必要もないのだが、ぼんやりしていてもしょうがないので、地元のシルバー人材センターに登録し、小遣い稼ぎ程度の仕事をしている。そこで斡旋を受けたのが守衛の仕事だった。昨年4月1日に1年契約で採用され、午後4時から3時間働く。時給は850円である。帰り道に一杯やるのが楽しみになった。
高校は荒れていた。地元の人間には「あぁ、あの学校ね」とあしらわれた。ズックのかかとを踏みつぶし、ブレザーのネクタイはバンダナ代わりで、いつもワイシャツのはだけた生徒たちが下校してゆく。「しかし、ね。そんじゃ社会に出てから困るだろうよ」と、Aさんは校門を出て行く生徒たちに毎日声をかけた。
「さよなら、また明日!」
生徒たちはまったく無表情だった。教職員ですら小さく視線を投げかけるだけだった。しかし、Aさんはあいさつを続けた。生徒が3人来ると、3回声をかけた。5人来れば5回、「さよなら、また明日」を繰り返した。少しづつ反応を示してくれる生徒が出てきた。「オッサン、さよなら」。教職員も会釈し、「ご苦労さまです」と頭を下げた。
春は、学校歳時記でいえば卒業・入学の大切なシーズンである。Aさんの契約も今月で切れる。2月のある日、学校の事務局長がAさんを呼んだ。「どうでしょう、もう1年やってもらえますか」。契約更新の話である。特に異論はない。承諾すると事務局長は「その代わり」と言って条件を出してきた。就業時間を1時間短縮したい、と。少子化の影響で学校経営も苦しいのだろう。まして不人気の学校である。Aさんは考えた。時給850円の仕事は2時間で1700円にしかならない。学校までバス通勤しているが片道210円、往復で420円かかる。手元に残るのはわずかである。
「残念ですが2時間の仕事では続ける意味がありません。人材センターへ連絡してください。仕事を待っている人が他にもいるはずですから」。
事務局長は何も言わなかった。そして数日が経った。Aさんは再び事務局長に呼び出された。条件は変わっていた。就業時間がもとの3時間になっていた。いぶかしがると、事務局長はこう言った。
「1時間分は、あなたの『さよなら代』として加算させていただきました」。
もうすぐ4月、今年はどんな生徒が入学してくるのだろう。Aさんは楽しみにしている。
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2009年2月10日
2月10日、東京家簡地裁合同庁舎で、裁判所主催による留学仲介会社・株式会社ゲートウェイ21の債権者集会が開催された。昨年秋、突然の破産申し立てで、すでに留学費用を支払った顧客が1000人以上、渡航中の留学生の多くは語学学校、ホームステイ先の突然の打ち切り通告など、そのひどい対応ぶりが社会問題にもなったから、ご記憶の向きも多かろう。
集会では破産管財人の弁護士が、同社の貸借対照表、損益計算書を提出、破産までのいきさつを説明した。会社の収支状況を見る損益計算書は見るも無惨だった。1997年(平9)に立ち上げたこの会社だが、破産する2008年(平20)まで営業利益はほとんどの期で赤字、経常利益も同様で、こんな会社が成り立っていたのか不思議である。
そのからくりは、留学希望者からその費用を早ければ半年前にも全額納入させ、渡航先の語学学校、ホームステイ先への支払いを出発1,2週間前に行うというシステムにある。そのタイムラグの間に集まった金を会社の人件費、営業所運営などに当て、本来支払うべき学校、ホームステイ先への費用を食いつぶしてきた。留学希望者が多ければ、そんな自転車操業も成り立ったのだろうが、昨年来の金融不安などで一気にそれも激減、破たんする羽目になった。
福井伴昌元社長が集会に出席、裁判官の許可のもと、質疑応答を行った。「私はかつてカリスマ営業マンといわれ、3億円も稼ぐ男だった」そうで、元会社での年収は上限3000万円、本人は経営者として最低の報酬とうそぶいたが、さすがに破産管財人はこのような赤字会社でこれだけの年収は世間常識として「いかがなものか」と疑義を挟んだ。自己破産も勧められたが、「ここでそのようなことをしたら、経営者として二度と立ち上がれない」と拒否、まだまだ起業家として立ち回るつもりのようだ。「再起したら、債権者に5000円でも1万円でもお返ししたい」とはいうが、再起への具体的な動きは無く、債権者からは失笑が漏れた。
留学希望者獲得の旗振り役となった、福井元社長自らが設立にかかわったNPO法人日本留学推進協会には、慶応大学教授らお歴々がズラリと並んでいたが、この人達の道義的責任も問われていない。彼らの推薦で心を動かされた顧客も多かったはずだが、ただの一度も釈明の言葉を聞いたことがない。
集会は2時間で終わった。管財人の報告では破産に関する限り疑義はない、との趣旨だった。
「これで、『いじはいし』とします」。
女性裁判官が最後にこう結んだ。裁判の「維持」を「廃止」するのかと思ったら「異時廃止」というのだそうだ。破産手続の開始後、破産手続きの途中でめぼしい財産のほとんど無いことが明らかとなった場合、債権者への分配手続きをせずに進めてゆくことだと、債務整理用語にあった。
つまり、「泣き寝入りせよ」という意味である。
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2009年1月29日
冬になると思い出すCMがある。
1973年(昭48)の作品だから、私はまだ、大学浪人中だった。作家の山口瞳さんが出演したサントリーの「雁風呂」。ナレーションを再現してみよう。
「月の夜、雁は木の枝を口にくわえて北の国から渡ってくる。
飛び疲れると波間に枝を浮かべ、その上に止まって羽を休めるという。
そうやって津軽の浜までたどりつくと、いらなくなった枝を浜辺に落として、さらに南の空へと飛んでいく。
日本で冬を過ごした雁は、早春の頃再び津軽に戻ってきて、自分の枝をひろって北国へさっていく。
あとには生きて帰れなかった雁の数だけ枝が残る。
浜の人たちはその枝を集めて風呂をたき、不運な雁たちの供養をしたのだという」。――
最後に山口さんが画面いっぱいに出てきて、こうつぶやく。
「あわれな話だなあ。日本人って不思議だなあ」。
津軽地方の民話が題材だそうだ。
たとえば、こんな話もある。
夜間飛行中の渡り鳥が悪天候に遭遇、方向感覚を失った場合、たとえば海岸近くの灯台の光に惑わされ衝突を繰り返す。
死者1155人、あまたの犠牲者を出した青函連絡船「洞爺丸」の遭難は54年9月26日に起きた。
日本海を発達しながら猛スピードで進んだ台風15号の暴風、高波に巻き込まれたのは人間だけではなかったようだ。
荒天のさなか、渡り鳥たちは海上に揉まれる漁船の明かりに吸い寄せられた。船をたぐる船員たちは全ての明かりを灯し、渡り鳥を引きつけ安全な陸地まで導いたという。
大惨事だけではなかった、あの遭難にまつわる、ほっとさせられる話ではある。
鳥と人の、風景。
雁が帰って、また春が来る。
日本人って不思議だなあ。
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2009年1月6日
日比谷公園の、「年越し派遣村」に着いたのは正午過ぎだった。ちょうど昼食が始まったようで、配給を待つ3列縦隊がノロノロと動き始めていた。正月の、あっけらかんと明るい陽光と刺すような日陰の明暗。日比谷図書館脇の、50メートルほどの列は次々と合流する人の群れを呑み込んで、黒い影をさらに長く延ばした。
「寒い中、長い間お待たせしました。今から順次配給を開始いたします。押し合わないで。食べ物は十分にありますから」。
ボランティアの声が響く中、20人ほどを一区切りに、段ボールを重ねたテーブルだけの配給所へ人々が向かう。最初に小さなお菓子、続いて蜜柑、バナナなどの果物類。「すぐにポケットに入れてください。両手を空けておいてください」と声がかかる。それもそのはずで、すぐに紙の平皿とやや深めの皿を手渡され、その中には人参、大根などを煮込んだスープが注ぎ込まれる。さらにU字にくねったテーブルを回ると「これも持っていってください」とラップに小さく包まれた漬物、海苔のかかったおにぎり2個がポケットにねじ込まれる。お茶かコーヒーの入った紙コップをわずかに空いた手で受け取り、彼らは公園内に三々五々散っていった。
別に設えられたテーブルには簡易カイロ、手袋、靴下、マフラーなど防寒具が用意されており、欲しければ手に入れる事が出来る。午後2時からは甘酒、蒸かしたサツマイモも用意された。再び長い列が二重三重とうねり、歩道を占拠した。
「派遣切り」「解雇」によって多くの派遣労働者、期間工が仕事と住居を奪われホームレス状態になった。「村」事務局を兼ねた大型テントにはカンパを求めるブースの他に、健康相談コーナー、住居案内、就職斡旋、再就職用の履歴書用紙までが無料で手に入る。ボランティアが次々と登録を行い、当初彼らの目印だったバンダナはすでにはけ、「ボランティア」と書き込まれたガムテープを貼り付けた支援者たちが公園内の濃紺のテントの間を右往左往している。
「四日市で働いていたけど、どうも危ないと思ってね。稼ぎに東京へやってきたが宿代が高くて資金が底をついた」「実家に戻る? バツイチでね、親とうまくいっていないんだ。子供もいたんだが」。路上のストーブの周りで小さな声が聞こえてくる。
しかし、そんな風景を遠巻きにして眺めていた、段ボールにくるまったホームレスが声を荒げた。
「馬鹿野郎! オレたちゃ、派遣以下だ。派遣にもなれないんだ」。
社会の、その底には際限がない。
帰りがけ、配給で余った甘酒を一杯、「ご苦労さま」とねぎらわれて御馳走になった。甘いはずのそれは妙に塩っ気があって、奇妙な味がした。
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