20万のめぐる想い


 瞬きするほど長い季節が来て、
(カエデ……カエデ……)
 呼び合う声がこだまし始める。
「エディフェル……」
(聞こえる?)
 ……またあの夢だ。ここちよい微睡みの中、楓はなぜか自分が夢の中にいることを認識していた。
(聞こえる? カエデ。もう一人の私)
 声の主はエディフェル。いつの頃からか夢のなかに現れるようになったもう一人の楓。楓は、遠い昔にはエディフェルという名前であったらしい。
(聞こえる? カエデ……)
「聞こえる」
(そう……よかった)
 夢の中のエディフェルは穏やかで満ち足りた笑顔を浮かべている。今まで見たことのない表情だ。
(あなたにお礼を言おうと思って)
「お礼?」
(あの人と再び寄り添うことの叶ったこと。この星に20万の太陽が昇り、沈んだ後、私とジローエモンは再び出会うことができた……)
「お礼なんていらない。だって……」
 私も嬉しかったから。そう言おうとしたとき、エディフェルが言葉を重ねた。
(それと……もうひとつお願いがあるの)
 エディフェルは祈るようなまなざしで楓のことを見つめた。
(あの子たちを助けてあげて。天かける一族の末裔を)
「あの子たちって……」
(あなたならきっと判るわ)
 そう言うなり、エディフェルの姿は急激に薄れていった。
「ちょ、ちょっと」
 待って……。そう言おうとした瞬間、目が覚めた。
 見慣れた木目の天井をぼんやりと眺める。寝返りをうって二度寝しようとしても、もうエディフェルの姿は浮かんでこない。楓はエディフェルの夢に何かひっかかるものを感じたが、もう寝ていられるような時間でもなかったのでベッドから離れた。
 鏡台に向かって髪にブラシを通しながら、楓は夢の中のエディフェルのことをぼんやりと考えた。彼女が夢に現れるようになったのは、まだ小学生だった頃だ。
 彼女の家系にはエディフェルの一族の血筋――《鬼》の血が混じっている。エディフェルはいわば楓の前世であり、記憶を共有する者だ。
 最初は、エディフェルが何を言っているのか理解できなかった。
 次に、前世からの恋人が同じ時代に生まれ変わっていると聞かされて、内心嬉しく感じた。
 そして、その恋人は彼女の従兄弟の耕一だということが判明した。耕一の《前世》、次郎衛門はエディフェルと夫婦だったのだ。
 もちろん前世で夫婦だったからといって、楓と耕一が無条件で恋人になれるわけでもない。そんなことは承知していながらも、従兄弟のお兄さんとの間に特別な絆があることを考えると楓はとても幸せな気持ちになった。
 楓たちの住む隆山という土地には、室町時代中頃に鬼が現れ、次郎衛門という侍に退治されたという昔話がある。その、《鬼》というのがエディフェルの一族で、その力は次郎衛門にも受け継がれ、その子孫である楓たちにも伝わったという。
 鬼の血を受け継ぐ男は、自分の力を制御できる者とできない者の二種類に分けられる。制御できなかった場合は本能のおもむくままに殺戮を重ねるようになるらしい。
 時々、エディフェルや鬼の血筋というのは自分が造り出した空想なんじゃないかと疑ったこともあった。できれば空想であってほしいとも願った。
 それが空想ではなく、少なくとも鬼の血筋に関することはまぎれもない事実だと知ったとき、楓の胸は張り裂けそうに痛んだ。
 楓たちの父親代わりであった叔父は、自身が鬼の力を制御できないことを知り、理性を失う前にみずから命を絶った。
 父もそうであったらしい。
 耕一も鬼の血に負けない保証はなく、楓は耕一を失う日がくることをひたすら恐れる日々を過ごした。
 でも……
「もうその必要はないんだ。耕一さんは乗り越えたのだから」
 鏡に向かって唇だけ動かす。ブラシで髪の毛をくしけずるたびに、今までずっと抱いていた不安な気持ちが解きほぐされていく気がした。
 耕一は血筋の呪いに打ち勝った。それだけでなく、楓の気持ちにも答えてくれた。不安に怯える日々は過ぎ去ったのだ。
「よし」
 小さくつぶやいて、勢いよく立ち上がる。
 制服に着替えてドアを開けると、居間から朝食の香りがただよってきた。
 食卓には家族が全員そろっていた。姉の千鶴、梓。妹の初音。それに法事の関係で滞在している耕一。
「耕一さんはいつごろ向こうに戻られるんですか?」
「ええ、いつまでも大学を休んでるわけにもいかないので、今週末には」
「まぁ、それは急ですねぇ」
「俺も、できればずっといたいんですけどね」
 耕一は千鶴の質問に答えてから楓をちらりと見る。
 楓は照れてうつむいた。
 時計代わりに付けているテレビでは地域のニュースを流していた。
 県立博物館で開催されている室町時代展が、今日で最終日を迎えるらしい。
「こういうニュースって、どうしていつも『最終日』とか『期間が終わりました』とかなんだろうな」
 楓のお椀にみそ汁をよそいながら梓が言う。
「終わってから放送されてもちっとも意味ないのに」
「コマーシャルにならないように、じゃないかしら」
「にしても、無意味だよなぁ。はい、楓」
 梓はぶつくさいいながらお椀を楓に渡す。楓は「いただきます」と小さくつぶやいて目の前のご飯を食べ始めた。
 ニュースは天気予報に切り替わる。天気図の説明から今日の降水確率にきりかわり、天気予報が終わるころに楓は朝食を食べ終わった。
「ごちそうさまでした」
「はい」
 と、千鶴は自分で朝食を作ったわけでもないのに返事をする。
「相変わらず食べるの速いな」
 驚き顔を浮かべながらどこか嬉しそうな梓にちいさく頭を下げて、楓は居間を後にした。

 その日の最初の授業は日本史だった。
 日本史の教科担任は授業に脱線が多く、今もなぜか雅楽と現代音楽の融合について熱心に語りつづけている。
 授業中、楓はノートを読み返すふりをしながらなんとなく今朝見た夢について考えていた。初めて見たエディフェルの笑顔。そして『あの子たちを助けてあげて』という言葉。
 エディフェルから何かを頼まれるのは初めてだ。というより、いつも楓がエディフェルになったような視点で夢を見るので、楓の夢の中にエディフェルが現れて、楓に話しかけてきたのはこれが初めてということになる。
「夢の中では不思議に思わなかったのに」
 楓は口の中で小さくつぶやいて、朝に見た夢の内容を思い返した。
 一番気になるのはやはり『あの子たちを助けてあげて』というエディフェルの言葉だ。
 その時のエディフェルの表情からすると、『天かける一族の末裔』とやらはとても困っているらしい。しかし、楓にはその一族に心当たりもなく、どうすれば助けることになるのかも分からない。
 楓はもう一度、夢の中でエディフェルが言っていたことを思い返すことにした。
『この星に20万の太陽が昇り、沈んだ後に、私とジローエモンは再び出会うことができた……』
 彼女が口にした言葉が気になって、楓はノートの余白に20万と書いてみた。20万日という言葉が頭に浮かんで、試しに365で割ってみる。商が547.9まで計算して、まだ割り切れていないが計算をそこで打ち切った。
 20万日前は548年前だ。楓は日本史の教科書をめくって、巻末の年表を開いた。
「あ……」
 思わず驚きが口に出てしまう。楓は周囲を確認するが、今のつぶやきに気がついた者はいないらしい。小さく安堵して、計算結果をもう一度たしかめた。
「そっか、20万日前って、室町時代だったんだ……」
 心の中でつぶやく。それは応任の乱の10年くらい前。エディフェルと次郎衛門が出会ってから、20万日の月日が過ぎた。それは瞬きするほどの時間のようにも、また、長い長い季節を通り過ぎてやっとたどりついたようにも感じられた。
「そっか……そうなんだ……」
 楓は何度も年表を読み返して、それから《鬼》の襲来を記した昔話を思い返した。子供のころから何度も聞かされた昔話だし、楓の中のエディフェルはその物語を記憶として持っている。
「20万日前、耕一さんと私は出会った……」
 正確には次郎衛門とエディフェルが、である。しかし楓は20万という数字に酔いしれたようになって、脱線した日本史の授業には全く身が入らなくなった。
 気分は上の空のまま、いつしか授業は全部終わって放課後になった。
 楓はいつもの通学路をちょっとそれて、商店街に足を伸ばした。駅前のアーケードはいつもと同じはずなのに、なぜかいつもより暖かい光につつまれているような気がした。
 やわらかい光に包まれながら、楓はここで耕一さんと会えたらいいのにな、などということをぼんやりと考えた。
 あんまり心地よい風が吹いたので、楓は目をつぶって立ち止まった。瞬間、横合いからきた誰かと肩がぶつかる。
「あ、すみま――」
 楓の言葉が途中で止まる。
「うわ、ごめん、だいじょう――」
 相手の言葉も途中で打ち切られ、別の言葉が後をつないだ。
「楓ちゃん?」
 書店の入り口を背景にして、耕一があっけにとられた顔で楓を見ていた。
「どうしたんですか?」
 先に我にかえった楓がくすりと微笑むと、耕一はバツが悪そうに頭の後ろをかく。
「あ、うん。ええと、本屋でひまをつぶしてたんだけど……」
 と、楓の鞄に目をとめる。
「今帰り?」
「はい」
 簡潔な答えに、耕一はわずかな逡巡のあと口を開く。
「えっと……せっかくだし、どこか寄っていこうか」
 はにかんだような笑顔の耕一に、楓も照れながらうなずく。どこに行こうかと悩んでいる耕一に、楓は自分の希望をつぶやいてみた。
「室町時代展……」
「え?」
「行ってみませんか。室町時代展」
 耕一が戸惑っているようなので、説明を加える。
「県立博物館でやっているんです」
「ああ、うん。判ったけど」
 耕一は意外そうな顔でうなずいた。
「楓ちゃんって、渋い趣味してるんだね」
「そういうわけじゃないですけど」
 バスに乗って県立博物館に行く。
「楓ちゃんは中学生料金でいいよね」
「…………」
 楓は料金表を見た。一般が200円、中学生以下が100円、幼児は無料。楓は小首をかしげて耕一の顔を見つめると、耕一は気まずそうに苦笑いを浮かべながら目をそらす。
「ごめん、冗談」
「耕一さん……そんなにお金に困っているんですか?」
「違うって」
 楓の言葉に耕一は吹き出しそうになった。楓はあくまで真顔の質問だ。
「一般、2枚」
 耕一は受付にそう伝えた。
 博物館の中は、妙に天井が高かった。入ってすぐ目の前に祭りで使われる山車が飾ってある。
「そういえば、俺ってここ入るの初めてなんだよな」
 耕一が物珍しそうにあたりを見回す。
「私は2度目です」
 楓がぼそりとつぶやく。
「最初は、小学校の遠足できました」
「へえ……」
「向こうみたいです」
 楓は看板を見つけて指差す。館内に指示されている順路とは違ったルートになるが、そんなことおかまいなしに室町時代展のフロアへと向かった。耕一もポケットに手をつっこんで、その後を歩いた。
 室町時代展のフロアには、人の姿がまったくない。広々とした空間にガラスをへだてて古ぼけた道具やら甲冑やらが並んでいる様はどこか薄ら寒い。
 楓は不思議な感慨にとらわれ、息をするのも忘れて当時の品々を見つめた。エディフェルの記憶は確かにその品々を知っている。古い展示物を眺めていると、遠い昔に立ち戻ったような気がしてきた。
 そして瞬きするほど長い季節が来て、呼び合う名前がこだまし始める。
(――聞こえる?)
「え?」
 楓の耳に不思議な声が届いた。
(聞こえる?)
「誰?」
 どこからか響く声。懐かしい声。楓は声の主を求めて辺りを見まわした。振り向いた勢いで黒髪が舞い上がり、一拍おくれて耳にかぶさる。
 その部屋にいるのは耕一と楓だけで、声の主はどこにも見当たらない。
「耕一さん、……今の声、耕一さんですか?」
「え?」
 絵巻物を眺めていた耕一は、いきなりの楓の問いかけにけげんな顔をする。
 楓はまぶたを閉じ、気持ちを落ちつかせた。かすかに、遠く、呼ぶ声がする。
(聞こえる?)
(聞こえる?)
「聞こえるわ」
 楓は口に出して答えた。
「え? ど、どうしたの楓ちゃん」
 耕一の声に囁き声が重なる。その声はどちらも半信半疑だ。
(聞こえる?)
(聞こえるの?)
「ええ、聞こえるわ」
 楓が返答する。瞬間、意識が風のように流れこんできた。
(見つけた。やっと見つけた。声の届く人)
(声の届く人)
(助けて)
(助けて、助けて。僕たちをここから出して)
「ここって、どこなの」
(暗いの。すごく暗いの)
 要領を得ない言葉。それでも楓は声の主たちが困り切っていることを感じた。そして、今朝みた夢のことが脳裏をよぎる。この声の主が、エディフェルが言っていた『天かける一族の末裔』なのだろうか。
「どこ? どこなの?」
「楓ちゃん?」
 楓は耕一に話しかけられて目を開けた。耕一は何が起きたのかも判らないまま楓の顔をのぞきこんでいる。
「耕一さんには聞こえないんですか」
「聞こえないって……なにが?」
 困惑をかくしきれていない。
「なにがって、あの声ですよ。私たちに助けを求めてる」
「俺には聞こえないけど……」
 耕一の言葉に楓はうつむく。
「そう……ですか」
「でも」
 と、耕一は楓の肩に手を乗せた。
「楓ちゃんが聞こえるっていうなら、俺は信じるよ」
「耕一さん……」
「で、その声は何て言ってる」
 耕一の言葉に、楓は一転して真剣な表情に戻った。
「助けてって。……それから、ここは暗いって」
「それだけじゃ判らないな」
 耕一は周囲を見回す。手がかりを探そうにも耕一の目には怪しいものなど何も見えないし、その耳にも楓が聞いたという言葉は届かない。
 楓は目をつむって声の出所を求める。転ばずに歩けるように耕一が手をつないだ。
 やがて楓が目を開けたとき、目の前には古い刀剣があった。展示物のひとつで、刺繍で模様のつけられた鞘は古びているのに、刀身は500年の時を経た現在でも輝きを失っていない。
 その刀剣には「次郎衛門の剣」という簡単な説明が付け加えられている。
「この剣があなたなの?」
(違うの。――を通じて言葉を送ってるの)
 一部ききとれない言葉があったが、目の前の剣のことだろう。
「どこにいるの?」
(よくわからないの。暗くてせまいところなの)
「もっと詳しくわからない?」
(えっとね)
 声の主たちはそこで言葉を切る。仲間うちで相談するような囁き声がした。
(えっとね、わたしたちが落ちた場所なの)
(ほとんど違わないの)
(そこにずっと閉じ込められてるの)
(お外に出たいの)
「待ってて、すぐに探してあげるから」
 楓は真剣な口調で答える。
(まってるの)
 声たちが口々に言う。楓は耕一に声のことを説明した。
「出ましょう」
 せっかちな口調で言い、早足で歩き始める。耕一が駆け寄ってきて隣に並んだ。
「心当たりはあるの? その声の正体とか」
「確証はないですけど……」
 楓は真剣なまなざし。
「あれは恐らく、ヨークです」
「ヨーク?」
 馴染みのない単語。耕一は問い返す。
「ヨークって?」
「ヨークは、エルクゥをのせて星をわたる船」
 夢の中のエディフェルの言葉を思い返しながら楓は説明した。エディフェルは自分たち《鬼》のことを《エルクゥ》と呼んでいたのだ。そしてエルクゥはヨークに乗ってこの星に舞い降りてきたらしい。
「船? 船が楓ちゃんを呼んでるわけ?」
「ヨークは船であると同時に、一個の生き物なんです。私たちにとっては家族のようなものでした。他のエルクゥたちよりも、ずっと……」
 楓は耕一を見つめた。
「ずっと、ずっと家族だったんです」
 耕一は楓のあたまに手を乗せる。
「判った。その声の主を探そう」
「ありがとうございます」
「礼はいいよ。楓ちゃんにとって大切な存在なら、俺にとってもきっとそうだし」
 耕一は自分の言葉に照れたように笑った。一転、真面目な表情になる。
「で、そのヨークってのはどこにいるんだ?」
「わかりません。私……エディフェルはヨークよりも先に死んでしまったわけですし」
「そっか……」
 耕一は少し考えてから、言った。
「その声は、私たちが落ちた場所っていってたんだよね」
「はい」
「じゃあ、ヨークがあった場所に行ってみよう」
「そうですね」
 ヨークがあった場所。ヨークが不時着した場所だ。
「……て、どこに落ちたんだか俺にはわからないけど」
「私は……家から道をたどれば、わかると思います」
「家から?」
 耕一が問い返すと、楓はかすかに頬を桜色に染めた。
「はい」
 柏木家の家屋敷は、遠い昔に次郎衛門とエディフェルが一緒に暮らした家と全く同じ場所に建っている。昔は荒野の一軒家だったのだが、町の発展とともに市街地に飲み込まれたのだ。
 だから、エディフェルの記憶を持つ楓ならば、家からヨークまでの道筋をたどることができる。
 楓と耕一はバスに乗って自宅のそばまで戻ってきた。
 楓が目を閉じてしばらく立ちつくしていると、耕一がその右手をそっと握る。
 瞬間、楓は記憶の奔流に流されそうになった。
 春。出会ったばかりの二人。言葉を理解するのと同じ速度で二人は相手のことを知っていった。
 夏。空高く流れる雲を見上げながら『私はもっと高いところから来たのよ』というと、次郎衛門は『やはりそなたは天女なのだな』と笑った。
 秋。実りの季節。金色の稲穂の中を駆け回り、夕日に長くのびる影をどこまでも追いかけた。
 二人で冬を迎えることはなかったが、エディフェルの記憶のなかで次郎衛門と過ごした月日は最も美しく幸せに包まれた思い出だ。
 楓は息を深く吸い込むと、遠い記憶を頼りに歩き出した。風むきを確かめるように何度も立ち止まり、昔の道が建物でふさがっているために何度も道をそれた。楓は慎重に位置を確かめつつ歩き続け、やがてある場所で足をとめた。
「ここです」
 その場所に見覚えがあった。柏木家の菩提寺となっている寺で、ついこないだ耕一の父の葬儀を執り行ったばかりの場所だ。
「へぇ、ヨークってのはここに不時着したんだ」
「だと思いますけど」
 と、楓。菩提寺に辿り着いたことは楓にとっても意外なことだったらしい。
 境内を見まわしていた耕一は、寺の来歴を書いた立て札を見つけた。寺の由来について書かれた文章を読んで、感心したようにつぶやく。
「へー、この寺って、ご神木のそばに建てられたんだ」
「ご神木?」
「うん。ここに書いてる」
 楓はとてとてと駆け寄ってきて、耕一の横に並んだ。少し背伸びするようにして立て札の文字を追う。
 立て札は寺の来歴をこう説明している。
 いわく、室町時代、戦乱のきざしが見え始めたこの村に一人の行者がやってきた。その行者が地面に杖をつきたてると、その杖が成長して一本の巨木になった。
 その巨木をご神木として建立されたのが当神社である、と。
「これです!」
 説明文を読み終わるなり楓が叫ぶような口調で言った。
「その木が、ヨーク。多分そうです!」
 楓は境内を見回すが、それらしい巨木は見当たらない。
「裏のほうにあるのかも」
 歩き出した楓の隣に耕一が並んだ。
「楓ちゃん、ご神木がヨークって?」
「ヨークは、もともとこの星の植物に近いんです。だから、傷ついたヨークがこの土地に根づいても、なんの不思議もありません」
 楓は歩みをとめることなく、口早にそう説明した。耕一がその言葉を理解したかどうかには関心がなく、ご神木を探して歩き回る。
 しかし、境内を一周してもそれらしい巨木は見つからず、楓は途方にくれて足をとめた。広い境内を歩き回ったせいで軽く息切れしている。
「例の声は? まさか、なにも聞こえないとか」
「はい……」
 耕一の問い掛けに楓はそう答えた。隠しようのない不安が表情からにじみでている。
 耕一は楓を力づけるように明るい口調を作った。
「もう一度探してみようよ。ご神木がこの境内にあるのは確かなんだから」
「……そうですね」
 楓は小さくため息をついて、とぼとぼと歩き始めた。
 やがて、夕日に染まる境内の片隅で、楓は大きな切り株を見つけた。周囲をロープで囲まれ、切り株は半ば朽ち果てている。どうやらこれが『ご神木』であったらしい。
「そんな……」
 楓は古ぼけた切り株に触れた。耳をあてても声は聞こえてこない。
「そんな…………」
「あの声は……聞こえない?」
 半疑問形というよりも事実を確認するような調子の問いかけに、楓は無言でうなずいた。そして、そのまま地面にへたりこむ。しばらく茫然として、それから木の根元を素手で掘り返し始めた。
 耕一は楓の行動を茫然と見つめた後、はっと我に返って楓に駆け寄り、地面を掘り返す手をつかんだ。
「そんな事したら、怪我するよ」
「きっとこの下にいるんです。助けを求めているんです」
 楓は髪の毛を振り乱して叫んだ。あまりの剣幕に、耕一はつかんだ手を離してしまう。
 楓は一心不乱に切り株の根元を掘り返した。玉砂利を除け、土の層をえぐりとる。
「きっとこの下にいるんです」
 固い土の層をひっかくように掘り進む。白い手がよごれ、指先から血がにじんでいた。
「助けを求めているんです……。今度は私が助ける番なんです」
「無理だよ、楓ちゃん。この下にはいないよ。声も聞こえないんだろ」
「そんな……」
 夕日が沈むとともに薄闇が世界を覆っていく。月が太陽にかわって空の中心へと歩み出る。
「この下にいないんだったら……」
 楓は、薄闇の向こうから耕一をにらみつけた。
「だったら、どこにいるんですかっ!」
「そんなこと、俺に言われても」
 思わず叫び返した耕一だが、楓の顔を見たとたん気まずそうに目線をそらせた。
「……ごめん」
 楓は唇をかたく結んだ。しばらく自分が掘り返した穴の中を見つめていたが、やがて大きくため息をつく。
「……私のほうこそ、すみませんでした。逆上してしまって」
 楓は疲れきったようにゆったりとした動作で立ち上がった。おずおずと伏し目がちに耕一を見る
 耕一は首を横に振った。
「ちょっと驚いたよ。その声の主――ヨークは、楓ちゃんにとってとても大事な存在なんだなって」
「はい。とても大事な……お友達だったんです」
 楓はむりやりに笑顔を作って微笑んだ。
「そっか、じゃあ、なんとしても助けてあげないとな」
「でも……」
 途方にくれてうつむく楓の頭を、耕一は軽くぽんぽんと叩いた。
「なんとかなるよ、きっと。そうだ、もう一度博物館に戻って、『声』に詳しい話を聞いてこようか」
「そうですね。……あ」
 楓は口元に手をあてて小さくつぶやいた。
「どうしたの?」
「室町時代展、今日までです……」
 二人は同時にため息をついた。
「どうしてもっと早く放送しない、国営放送!!」
 耕一がヤケ混じりの大声で沈みそうな夕日に向かって叫んだ。
「今からじゃ……まにあいませんよねぇ」
「どうしてそんなに早く閉まる、県立博物館!!」
「しょうがないですよ。県立ですし」
 楓がわかったようなわからないようなフォローを入れる。
「けど、困りましたね」
 楓は唇に指をあててつぶやく。その様子を、意外な顔をした耕一が見つめた。
「なんですか?」
「楓ちゃん、冷静だね」
 耕一のつぶやきに楓も少し考え込む。
「ああ、そういえばそうですね」
 そして、くすっと笑う。
「きっと、耕一さんが『なんとかなる』って言ってくれたからですね」
「そ、そう?」
 耕一はわけもなく照れてあらぬ方向を見た。そして、一人の僧侶がこちらに歩いてくるのを見つけた。
「おやおや、にぎやかですな」
「あ、こんにちは」
 歩いてきた僧侶に、楓はぺこりと頭を下げる。
「今日はお父様のお墓参りですか」
 僧侶は耕一に笑いかける。その時になって、やっと耕一はその僧侶が父の葬儀を執り行った僧侶、この寺の住職だということを思い出した。
「ええ、じつは……」
 耕一が口を開く。楓が切羽詰まった口調で割り込んできた。表面は冷静に見えても、やはり心の中は不安で一杯になっているようだ。
「この木は、ご神木は、いつ切り倒されたのですか?」
 住職は「さてな」と髭をなでる。
「たしか、明治の始めか……いや、もっと前でしたかな。そうそう、江戸時代の末期頃でしたな」
「そんなに昔なんですか」
 楓は力無く肩を落とす。
「天変地異を予言するという言い伝えがあって、実際に地震が起きる前の晩に蒼白く発光したという記録が残っております」
 住職はご神木について滔々と説明を始めるが、楓は上の空でまったく話を聞いていない。
「……というわけで、落雷によって倒れたという話です」
「はぁ、そうですか」
 楓の代わりに耕一が聞き役に回った。
「で、その時残った材木を伐りだして、小仏を造ってもらったのです。もしもご神木の倒れたのがもう少し遅くて明治時代にさしかかっていれば、廃仏毀釈の真っ最中で、そんなことはできなかったでしょうな」
「なるほど……って、今、なんていいました?」
 耕一が勢い込んで尋ね、住職は不思議そうな顔をする。
「廃仏毀釈ですか? 若い人は知らないのかもしれませんね」
「その前です!」
「その前というと、……小仏を伐りだして」
「それだ! 楓ちゃん、聞いた?」
「はい! それで、その小仏はどこにあるんですか!」
「それなら本堂に……」
 住職の言葉を聞き終わる前に、楓は踵をひるがえした。住職はあぜんとして楓の後ろ姿を見送る。
「なんか、すみません」
「いやいや、元気が戻ってなによりです」
 と、笑う住職に礼を言って、耕一も楓を追って本堂へと向かった。
 先を走る楓にすぐに追い付き、二人で寺の中に入る。
 ほとんど日の暮れた時間の本堂の中には月の光も届かず、暗闇と静寂に包まれている。楓は靴を脱いで本堂にあがると、ためらいのない足取りで奥へと進んだ。
「聞こえる。やっぱりここだ。どうして今まで聞こえなかったんだろう?」
 静寂に包まれた部屋に楓のつぶやきだけが響く。
「楓ちゃん?」
 耕一は静寂を破るのが恐れ多いような気がして、楓に小声でささやいた。
「聞こえます。やっと見つけてくれた、そう言っています」
 楓は小さな木製の仏像に静かに手を伸ばした。その仏像は目立たない場所にあり、楓が手を伸ばしたことで耕一もやっとその存在に気づいたほどだ。
 楓は、両手でそっと包み込むようにしてその仏像を持ち上げた。
「やっと、見つけました」
 楓が仏像に話しかけると、それに呼応して仏像の一部が淡く光った。楓の手が触れている部分、正確には、土を掘り返したときにできた傷に触れた部分だ。
 楓は声なき声にうなずくと、耕一に向き直った。
「少しの間、持っていてもらえませんか」
「ああ、いいけど」
 耕一が小仏を受け取ると、楓は通学カバンの中身を探った。すっかり日も暮れてしまったため、耕一からは楓が何をしているのかが分からない。
「電気、つけようか?」
 耕一が尋ねると、
「いいえ」
 楓がいるあたりから返事がする。
「羽化は夜に行われるものですから」
「そう? ならいいけど」
「あった」
 楓は小さくつぶやいて、耕一のそばへと寄ってきた。「つっ」とでも言うようなうめきの後、耕一の手の中の小仏が脈動し、月の光のように輝いた。
 その光に照らされて、耕一は楓が何をしたのかをやっと悟った。楓は小仏の上に手をかざしていて、その手からは一滴、また一滴と血の雫がしたたりおちている。見ると、床の上には裁縫道具の小さな包みが落ちていた。
 耕一の目線に気が付いた楓は微笑みを浮かべる。
「あの声の主がヨークならば、私たちの血を得ることで力を取り戻すはずです」
 楓の言葉を裏付けるように小仏は激しく輝く。やがて、輝きはふいに消えて、あたりは闇に包まれた。
「?」
 耕一が楓に状況を質問しようとした時、暗闇の中で小仏の一点が、ぽつん、と光った。
 ぽつん、ぽつん。
 小仏の表面にいくつもの光の斑点があらわれ、その斑点が空中に滲み出てくる。
「出てきました」
 斑点は光の粒となり、二人の頭上を揺れ動き、舞い踊る。
「きれい……」
 光の粒を見上げながら楓がつぶやく。
 耕一も頭上の光景を見上げながら、
「まるで……」
 蛍みたいだ、思った時、楓が、
「宇宙にいるみたい」
 小仏から光の粒の放出が終わり、粒たちはいっせいにささやきだした。そのささやきは楓だけでなく、耕一の耳にも確かに聞こえた。
(ありがとう、楓)
(ありがとう、エディフェル)
(ありがとう)
「私を忘れないでいてくれたの?」
 楓が尋ねると、いくつもの声が重なって返ってくる。
(忘れないよ)
(ずっと時が流れたけど)
(忘れないよ)
(忘れたりしないよ)
(忘れないよ)
 光の粒たちは口々にそうささやきながら上昇して、本堂の天井に染み込むようにして消えてしまった。耕一と楓がお寺の外に出ると、どこかに向かって飛んでいく光の粒が遠ざかって行くのが見えた。
「今のが……ヨーク?」
 耕一が尋ねると、楓は光の粒が消えた方向をずっと見つめながら答えた。
「そうでもあり、違ってもいます。あの子たちはヨークで、そしてヨークの子供でした」
「子供?」
「不時着する前から宿していたのか、そうじゃないのかは分かりませんが、ヨークはここに自分の分身……子供を残していったんです。その子供たちは、どういう具合にか木の中に飲み込まれ、今まで閉じ込められていたのでしょう」
「飛んでいってしまったけど、これからどうなるのかな?」
「どこか、適した場所を見つけて根を下ろすのでしょう」
「ちゃんと育つかな」
 耕一の言葉に、楓はかすかに表情を曇らせた。
「正直言って、それは難しいと思います。私たちの……エディフェルやヨークの故郷とこの場所では、あまりにも環境が違いすぎますから。でも、」
 と、楓は耕一を見つめてにっこり笑った。
「きっと大丈夫です」
「楽天的だね」
 意表をつかれたような顔をした耕一を見て、楓は小首をかしげる。
「おかしいですか?」
「おかしいっていうか……うん、ちょっと意外だった」
 正直といえば正直な耕一の言葉に、楓はくすっと笑った。
「でも、きっと大丈夫ですよ」
 楓はそう言って、二、三歩はねるようにして耕一の前を歩いた。
「私が居場所を見つけたように、あの子たちもいつか安らげる所にたどりつける。そう思いせんか」
「あ、ああ。そうだね」
 背後から耕一がそう答えるのが聞こえた。少し照れの入った口調に、楓はくすりと笑う。
「そして、長い長い季節が過ぎたあと、あの子たちの声が世界中にあふれるんです」
(聴こえる?)
 楓は瞬きするほどの間、遠い未来の光景をかいま見たような気がした。
 そして、耕一の姿を見たくなって、月夜にくるりと振り向いた。

きー様、感謝、感謝。



「鍵屋447」のきー様から頂きました、「20万アクセス記念SS」の「痕」の楓ちゃんのSSです。

SSを頂いたのは初めてだったので、ビックリしました。(笑) しかも、こんなに長い、力作を頂いちゃって、私は幸せもんです。20万アクセスと20万日を絡められてるあたり、何やら照れくさいんですが、兎に角嬉しいです☆
きー様、ホントにありがとうございました。m(_ _)m

(イラスト追加(Sun, 11 Jun 2000):「18万記念の楓ちゃんのような感じで」、と言うきー様のご要望だったので、こんな感じにしてみました。一応、SSのイメージに合わせて描いたつもりですが、画力がおっつかなくって、どうもイメージ通りにはいかないですねぇ。すみません、きー様。(^_^;;) ……ちなみにBGMは、Enya 「The Celts」。最近、今ごろになってはまってます)


Sat, 27 May 2000 さむな

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