武田論文集(紀行文 北海道ウオーターフロント研究会)  サハリンをめぐって垣間見た日本の残影   ー鉄道ジャーナル「サハリン鉄道ツアー」からー                      武田 泉(北海道教育大学岩見沢校)  0、プロローグ  北海道は日本列島の北東端に位置するが、一方で「自由世界の袋小路」との意識もあった。「北東アジア」は札幌市が進める国際交流の方向性として取り組まれている地域だが、一般的に「鉄のカーテン」によって厳重に仕切られ、向う側は知られざる世界であったなど、現在も冷戦構造を色濃く残存させている。1996年の8〜9月、稚内発のフェリーを利用して、その近くて遠い国・サハリンへの「鉄道ツアー」に参加した。団体旅行ではあったが、筆者の趣味(研究テーマ?)ともマッチし旅行自体は充実していた。が、帰路は思わぬ展開となって持病を抱えるはめに…。このサハリン行は、苦い思い出と交錯して記憶されている。  1、蚊に刺されつつ歩いた軽便鉄道の木橋ーポロナイスクにてー  起こされると、列車は既に停車中。ポロナイスクに到着。眠い目をこすりつつ、窓の外は濃いもやに包まれた朝が始まっている。日本統治時代は最北端の街、敷香だ。  …昨日の朝稚内港を出港し、「最果て」の宗谷岬を越え、日本地図では切れた先を進んでいく。時計の針を3時間進め、ロシア語の飛び交う船内食堂ではボルシチを賞味するなど、北海道の日常からいきなり外国へと担ぎ出された感じで、何か不思議なまっただ中。「サハリン7号」船内の顔触れでは、ロシア人はごく一部で、大部分は日本人の観光客や旧華太にゆかりのある人達(訪問団)。おだやかな宗谷海峡を北進する一見なごやかな船内風景だが、日本人各自の胸の内にはやはり敗戦国・シベリア抑留といった暗い過去の残影が重なる。コルサコフ港では下船や入国管理に手間取り、深い闇夜のコルサコフ駅からデッキ下にはロシア女性車掌が待つ寝台特別列車に乗って、食堂車で遅い夕食にありつけたのは、夜の10時(現地時間)もかなり回った頃のこと。まず日本円5千円分をルーブルに両替し、いきなりを「百万ルーブル」札を目にし、インフレを実感。この客車は大陸メイクで大きくヨーロッパの雰囲気だが、線路の幅は狭く日本と同じ。すでに不思議な世界のまっただ中…。  朝陽まぶしいポロナイスク駅前に、突然軍用ジープのような「トラ箱」車が来訪。びっくりしながら鉄道班一同が乗り込むと、外からガチャンと扉と鍵がかけられ閉じ込められ、一同またびっくり。車内からは小さな覗窓のみで、一種護送車の気分。旧敷香駅跡(現車両基地)から市街地を港へと進む。日本時代からの燈台の横の船着き場から、湾口部を渡船で反対側へと渡り、再び例のトラ車は浜辺の湿地帯の悪路を突っ走る(南側がオホーツク海)。こんな悪路だからトラ車なのだ。途中からか細い線路添いを進み、軽便鉄道の木橋に到達。扉が開かれ降りると、何という蚊のすごさ。体中を刺されるが、開拓時代の北海道はきっとこんなであったのであろうか。すると、線路脇から東洋人風のおばあちゃんが現わる(@)。浜辺のハマナス?の実をいっぱい抱えていて、ジャムを作るという。紫色の小っちゃな実だが、酸っぱさの中にほのかな甘みがあった。このおばあちゃん、日本語が上手だ。話を聞くと、日本人と少数民族の混血だという。そして、学校に通っていた頃の話などを聞く。 「生活はソ連・ロシアの現在よりも、日本時代の方が良かった。」には、正直言って驚く。  2、旧国境線に見る「兵どもが夢の跡」  ポロナイスクを発車した特別臨時列車は、さらに北進。日本統治時代は軍事機密とのことで、列車時刻さえ伏せられた区間に突入。戦争末期の速成区間で、当時は民間人が皆無の国境地帯はベールに包まれていた。鉄路を刻む音も、なぜか妙に緊張して伝わってくる。上敷香を過ぎて北緯50度真近だというのに、汗ばむほどの暑さを夏の陽差しが照らす。しかし停車を繰り返した古 ・気 駅前の木陰の涼しく、ほのぼのとした田舎の光景からは、51年前の緊張感は微塵も感じられない。この日本時代の終着駅気 は、現在スミルヌイフと言い、ロシア語で「勝利」を意味する。  さらに北進し、列車は本線線路上に2回ほど停車、1回目の停車では旧日本軍トーチカ跡や戦没者慰霊碑、ソ日友好記念碑を見る。そして、いよいよ北緯50度の旧国境地点へと向かう。線路から踏み分け道をかき分けると、森林に囲まれた南北方向の砂利道に出た。そして、北緯50度線の旧国境の標石が埋められていたという地点(A)は、単に林の中に砂利道が通じているだけで、何の変哲もない場所。国境など、人間の勝手な都合で付けられた線でしかないのか。現在は、その地点にソ連軍兵士が南側を睨む姿を形どった記念碑が突っ立っているのみ…。  3、北緯50度を越えた街・ノグリキにて  再度列車北進し、ティモフスクを経て夜半にノグリキに到着。一般鉄道の終点である。翌朝、駅前に荷台に日本製自動車、つまり漢字が書かれたままのトラックに、まずは驚く。ロシア製バスで軽便産業鉄道の駅へ。一同、見学に熱中。このゲージの幅の狭い鉄道は、北部の石油採掘都市オハとの間に敷設され、以前は旅客輸送もされていたが、現在では貨物輸送のみ。旅客輸送はすでに航空機の時代。一行は軽便機関車に試乗、そして写真撮影。軽便鉄道駅構内周辺には、日本時代のダブルルーフの木造客車が、そのまま倉庫代用として活用されていたのが印象的だった。  お次は、ノグリキ市街へと繰り出す。石油開発が契機の極東の産業都市は、市街地の外側に5〜6階建てのアパートが臨まれる。街はずれの少数民族の民芸品店買い物の後(B)、ビラも張られた掲示板が目に付く市街地中心部へ。公設商店街と自由市場が並び、誰からともなく買い物。ルーブル札のケタの大きさに戸惑いつつも、まずパン屋でパンを買い、次はアイスクリーム。通りの反対側の自由市場に出ると、またもや東洋人の顔を見付ける(C)。一行の一人が日本語で話し掛けると、東洋人のおばさんの1人が日本語で答えてくる。このおばさんは、親のいずれかが秋田県由利郡の出身で、数年前に一度里帰りして親類から歓迎を受けたとのこと。でも今では、サハリンも捨てたものではない、ペレストロイカ前であったら、私達は街を日本人が歩いていたとしても話を交わすことすら出来なかったと、ほんの十年ほど前のことを思い出していた。ゴルバチョフによるペレストロイカは、国民の多数を占めるロシア系ロシアよりも少数民族や外国人にとって自由を確保でき、朗報だったのだ。  午後はノグリキ市街の劇場で、地元劇団員による寸劇・歌・踊りの催しを見物(D)。プログラムで興味深かったのは、ロシアの催しとニブヒやウィルタなどの少数民族の催しとが交互に行なわれ、少数民族の踊りの輪にロシア人の子どもたちも加わっていた点。少数民族の青年が奏でた独特な楽器は、アイヌのムックリとうり二つだし、劇場内や民芸品店で見掛けた「模様・紋様」も、以前網走のウィルタ博物館「ジャッカドプニ」で見かけたものと同じ。世界は地続きでつながっていることを、改めて実感。  ここで余談を一言。ロシアでは、水はガブガブ飲むものではなく、ましては水道水は飲めない。幸い日本から保温ポットを持参したが、現地で喉を潤すには、ミネラルウォーターかアルコールのお世話になるしかない。さらに大変なのは、トイレ。ロシア人はほとんど自宅で用を済ましてから外出するといい、町中でできるところはまずない。このため、列車のタレ流し式トイレを使わざるを得ないのだが、停車中の構内には「山」ができる。さらにトイレ(船内など)では、固いロシア製ペーパーは溶けないので水洗トイレに流さず、箱(汚物入れ)に捨てよとあり、ロシア人の「モノ」自体が違うのかもしれない。とにかく、習慣が違うということはなかなか気苦労も多く、こうした点でサハリンは外国そのものであり、北方領土の「共同管理」もさぞ前途多難なことであろう。  4、険しいループ線と荒れ果てた線路  列車はノグリキを出発。ティモフスク付近で長かった北の陽は暮れ、森林帯に囲まれた闇夜を今度は進路を南へ向ける。あの北緯50度線を素通りし、南サハリンに戻る。若干うとうとしてから、コンパートメントを廊下に出て窓を開ける。月夜の中、外の風景は既に森林帯から果てしなく続くオホーツク海に変わっていた。  特別臨時列車はまだ暗い早朝に、アルセンチョフカ(真縫)からはポイントを渡って進路を西に向け、東海岸線から北部横断線を経て、西海岸線へと転線していく。ここは、サハリンでも東西間が最短で山も標高が低い地峡部で、戦後ソ連が建設したもの。反対側の東海岸はタタール(間宮)海峡から日本海につながるのだが、明るくなった海は波も穏やか。線路と並行して砂利道が連なるが、車はあまり見掛けない。モータリゼーションが進んでいないため、相対的に鉄道輸送(特に貨物)が重要である。西海岸線では、サハリンの鉄道では珍しいトンネルをいくつか通過する。基本的には日本時代の低規格線を若干改修しただけなので、重量列車が通過可能といっても、大陸育ちの大型車両の通過はギリギリでよくぶつからないな、という印象。食堂車で朝食を済ませた頃には、列車はトマリ(泊居;日本時代とほとんど同じ地名)やチェーホフ(野田)で停車を繰り返す(文豪チェーホフはここには来ていない)。駅の脇に跨線橋があり、駅構内の基本的構造は日本時代のまま。日本の鉄道に帰ってきたような錯覚もする。停車時間が長く、各自駅前を散策する。トマリ発車直後には、車窓から海岸段丘の上に日本時代の鳥居の跡も確認。  そして、早目の昼食後に、終着ホルムスクに到着。サハリン第二の都市で、大陸からの玄関口だ。現在機関区のある北駅が中心駅で、ホルムスク本駅(旧真岡駅)は無人の停留所と化していた。つい最近取り壊された、小樽駅とうり二つの日本時代からの駅舎は倉庫代用で、駅舎の跡は更地で跡形もなくなっている。特別列車はもう1駅走り、南部横断線(豊真線)の分岐点で広い操車場を抱えるポリヤーコボ(手井)が終着。ここで特別列車に別れを告げ、「キハ58」型気動車に乗り替え、豊真線最大の難所ループ線直下まで接近する。車内には「新潟〜新津間禁煙」などの表示も付けられたまま。実は、日本国内で走っていたもので、JR東日本が廃車後無償援助としてサハリン鉄道局に供与された車両である。サハリン鉄道では、現役の客車と気動車はゲージの幅が同じ狭軌であることもあってほとんどが日本製で、貨車と機関車が大陸製となっている。サハリンの鉄道はソ連(ロシア)化したと言っても、技術的にいまだに日本的色彩を残していて、実に不思議な存在である。  キハ58は、豊真線を山に向かってエンジン全開で急勾配を上っていく。山中の沿線にはダーチャ(別荘)が見えるが、多少みずほらしい感も。やがて貯水池に沿って走るが、日本時代に王子製紙真岡工場への工業用水確保のために作られたものだ。そしていよいよ、ループ線直下に達する(E)。この先のトンネルが落盤のため不通となっていて、列車はこれ以上進めない。停車すると、一行は我先と階段(保線用)を上り始める。トンネル上には鉄橋だが、目が眩む高さ。よくぞ戦前の日本が作ったものだと感心し、また戦争終結時には激しい銃激戦になったと聞き、複雑な心境。さらには、サハリン第一・第二の都市を短絡するという重要路線であるのに打捨てられ、レールは錆びつきまさに廃線状況。南部横断線は急峻な山地を越えるため規格が悪く、大陸製の大型車両(特に貨車)が通れず、さらにはロシアの財政危機でトンネルを改修できず、不通のままに放置されている。現在異国となった地に日本時代のインフラが放置されていたので、複雑さが頂点に達したまま、鉄橋を吹き抜けていく風にさらされていた。  5、つづら折りの道路を登って、ホルムスクを眼下に望む熊笹峠を越える  大陸との玄関、ホルムスク港に隣接する場所に、貨車の台車交換所があった。大きな工場風の建物内では、日夜広軌(大陸側)と狭軌(サハリン側)の台車を一両一両替えていく。建物の天井近くでは、重機のオペレーターにおばさんの姿を見かけて驚く。ホルムスクの街を後にして、日本製貸切バスでつづら折りの道を上ってゆき、熊笹峠を越える。山の中腹にはゴミ処分場と思われる所があるが、あまり分別など気を使っているようではない。峠に着くと、ソ連軍の大砲を形どった戦勝記念碑があった(F)。傍らにはソ連軍側戦死者の氏名が刻まれている。ということは、日本側にも犠牲があったということだが、艦砲射撃により比べ物にならないほどの死者を出したはずだ。これも戦勝国と敗戦国。日本人関係者にとって余りにも辛い、シベリア抑留と連なる。だが、さらに悲劇なのは日本人によって連れてこられ、帰国できなくなった韓国・朝鮮の人々かもしれない。何しろ、戦争集結時の混乱の中、デマによって韓国・朝鮮の人々が日本人に襲撃されて皆殺しとなった集落も、豊真線沿線にあったといい、背筋の寒くなる思いだ。ホルムスクの街中で見た、屈託のない笑みを浮かべて「ロシア人」になり切っている若い3世たちを見ていても、内心じくじたる重く何か複雑な感慨を覚える。  州都ユジノサハリンスクへと、われわれ一行はバスに乗っている。それは、ループ線で説明したとおり鉄道が不通のため、豊原〜真岡間は道路輸送に頼っているからだ。北サハリンでは市街地以外は砂利道があたりまえだったが、この両都市間では大部分が舗装され、通行量が少ないせいかロシア人運転手によるバスはかなりスピードを出し、若干危険も感じる。急激にモータリゼーションによって交通事故が激増し、環境問題が顕在化するのであろうか。はたして高度成長期に経験した隣国日本の経験は、こちらには伝わるのであろうか。  6、州都・ユジノサハリンスクにて  バスが山間部から平野に出て、ようやく大きな町並みが前方に広がってきた。サハリンの州都・ユジノサハリンスクである。「ユジノ」とはロシア語で「南」なので、「南サハリン市」とごく単純な地名。しばらく住宅街を走ってから、踏切を横断して左折すると、ユジノサハリンスク駅(G)。駅構内は、木材や物資を満載した貨車を絶えずディーゼル機関車が入れ替えしており、小振りながらも一日中活気あふれている。何か一昔前の日本の地方拠点駅の構内を彷沸とさせる。今宵の宿は、駅舎横の鉄道局直営のユーラシアホテル。室内は、お湯も使える日本製ユニットバスが使われるなど日本人好みの調度品になっていた。電気は何ともちゃちなコンセントで、火花が散って「ビリッ」ときそうだ。  一服後、隣の駅舎内を探検。閑散としていた他の駅とは違い、出札窓口も多く活気に満ちている。キオスクが何軒も店開きし、そのうちの一軒で地図・地図帳を購入。印刷の質は落ちるが、結構詳しい。千島(クリル)諸島の北方領土を開くと、やはり四島はロシア領の色になっていた。でも作為的なのは、うまく対岸の根室・知床半島をなるべく図幅の外に追いやってしまう編集方針。どういう意図なのであろう。やはり、ロシアの地図では「さいはて」であり、オフィジャルにはボーダーレスを認めたくないのか。その他に、新聞・雑誌、絵葉書、ロシア語版「はだしのゲン」、日用品として歯磨き粉、靴下、ジュース、などなど…。特に日用品については、韓国製製品が幅を利かす。例えば「デルモントオレンジジュース」も、表示はハングルと英語。逆に近いはずの日本からの製品としては、自動車以外見かけない。こうした状況からも、我々日本人とりわけ北海道民として経済のボーダーレス化への対応が不足しているのでは、との感想も言いたくなる。  駅舎横のホテルで駅構内の音で、なかなか寝つけないまま、朝を迎える。翌日は、ユジノサハリンスク市内を見るのだが、まず最初に駅裏の鉄道修繕工場の見学。ここで、サハリン鉄道のほとんどの車両関係を保守する。構内には、日本製・ロシアなど大陸製の様々な鉄道車両が並び、明日乗車するD51-4も黒煙を上げていた。これは、戦時賠償の一環で輸出され、現在は観光レトロ列車用に復元された日本製蒸気機関車である。しかし、楽しみにしていた日本時代の生き残り「2104型ガソリンカー」はどこにも見当たらず、日本時代からの扇型機関庫も半分は取り壊されていた。ここ数年で、日本時代の産業遺産は老朽化のためどんどん失われており、残念無念。工場の建物には、社会主義時代からの、大きな生産性向上のスローガンと労働者の絵が目に付いた。  次に、東洋風の屋根を持つ旧華太庁博物館へ。ユジノサハリンスク市内で、日本統治時代を偲ばせる代表的建造物である。敷地には、ソ連軍の大砲が鎮座し、戦勝国の演出と見る。展示はロシア側史観に依拠し、ロシアの南下政策は「善」、日本の南華太統治は植民地統治として「悪」という構図が目立つ。館内には、北緯50度線に置かれていた両国紋章入の国境標石(本物)も鎮座していた(H)。その他、自然・少数民族関係や、北サハリン地震関連の主として韓国からの救援物資の展示があった。休館日の臨時開館のため、売店での買い物は叶わず、これも残念。  午後は、列車の撮影(キハ58気動車、ダノイチ(新場)での廃車車両)の後、市内へ戻っての土産物店での買い物、とスケジュールを消化してホテル着。最後の夜の晩餐を前に、かなり疲れていたものの、個人の自由行動で街を歩こうと外出(これが悪かった)。幾筋かの通りを越えていくと、改修中の美術館。これが旧北海道拓殖銀行豊原支店である(I)。それから、ユジノサハリンスク教育大学東洋学部へ。時間がなく、玄関だけで退散。街には、デパートや売店(個人商店)を見かけても、ディスカウントのスーパーはない。高度成長前の、一昔前の経済活動である。  その後の、美味な晩餐以降の個人的体験は悲惨そのもの。ハードスケジュールがたたって、何か体調が変だ。部屋に戻ってからは大変(下痢、一睡もできず)。翌朝のフィナーレを飾るSL列車も、「寒け」の中で震えながら乗っていた。コルサコフ港に着いてからも、出国手続き・乗船がもたつき、ボーっと体を横たえてこらえるのが精一杯。船内では、ロシアの中年の女医さんから介抱されながら医務室で寝る。英語が通じずお互い片言のロシア語・ドイツ語・日本語をチャンポンにして、病状をコミュニケーション。薬を飲み、お茶やおかゆを作ってもらったりして、介抱していただく。そうこうするうちに、ようやく宗谷岬が見えてきたという声。  7、エビローグ  そして稚内到着後も話は終らなかった(入国審査・税関検査を簡略化し、救急車で病院へ、3日間入院後フラフラになりながら岩見沢の自宅にたどり着く)。日本人医師の診察で、国内に帰ってきたことを実感したり、帰途の宗谷線快速列車内で岩崎氏らゼミ一行(静岡大)と遭遇したことも、奇遇だった。地理的には近いが不思議さが充満していたサハリン旅行の代償が、(その後、再度の入院・手術・後遺症があり)、筆者にとってきわめて大きかったのである。  ああ、華太の過去の残影、腰の痛みに投影す   かつての国境線と、遥かなる島影の持つ、重い意味を抱えて 参考文献 徳田耕一(1995):「サハリンー鉄路1000キロを行く」日本交通公社,158p. 日ロフェリー定期航路利用促進協議会(1996):「船で行くサハリンーおもしろ旅事情」たくぎん総合研究所,159p. 杉村孝雄(1995):「華太・遠景と近景ー歴史のはざまと暮しの素顔」サッポロ堂書店,372p. 朴亨柱他(1990):「サハリンからのレポートー捨てられた朝鮮人の歴史と証言」御茶ノ水書房,200p. 竹島紀元(1996):サハリンの鉄道1996ー日本との縁深き北辺の鉄路と幻の産業軽便鉄道.鉄道ジャーナル ,105〜116.