武田論文集  自由論題(日本交通学会への提出論文 1990年)   北海道における鉄道廃止政策の      展開と沿線地域社会       ーー名寄線・池北線の事例を中心にーー The infiuence of the railway abolishing policy into the rural socities in Hokkaido.----The cases of the Nayoro-line and the Chihoku-line           武田 泉(北海道大学)  1、序論  1)本研究における問題意識  北海道では、「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」に基づく廃止対象の「特定地方交通線」を数多くかかえ、中央レベルの決定に対する地元の猛烈な反発を招いた。結果的には池北線1線が存続し、名寄線などの他路線は廃止となった。両線は廃止政策の展開過程では同じ扱いを受けたが、最終局面で存続と廃止に命運を分けた。この原因は、営業成績・交通体系構成上の微妙な差異、自治体首長・選挙区・国会議員の発言力等の微妙な状況に起因するものと考えられてきた。  鉄道廃止政策についての調査研究を時期ごとに整理すると、まず政策実施前に青木(1971)、藤井(1971)等が全国的視野で国鉄問題に内在するローカル線問題として検討し、交通機関の多様化で効率的な選択に委ねられるべきこと、利用者の多くが通学生でありむしろ教育問題として取り上げられるべきだと指摘した。また佐藤(1979)、矢花(1974)等は北海道など輸送量の低いローカル線沿線地域の交通利用実態について把握し、当初からローカル線の交通機能が低下していた反面、鉄路存続への願望は強いという、実態と意識との乖離が指摘された。次に福田(1985)、丹羽(1986)等は、第1次対象線の転換政策実施段階での評価を行ない、予想以上に第3セクター鉄道設立が進捗し、地元負担を契機に地元が鉄道のあり方を考えるようになったと指摘した。さらに第3セクター鉄道が全国的にブームとなり一定の成果をおさめると、地域振興面から脚光を浴び、国土庁サイドでの調査が行なわれた。第3次線まで進捗した最終局面では種村(1989)の他、政策当局や交通経済学の立場から岡田(1990)は1 0余年に及ぶ施策の道程が回顧され、交通地理学からは青木(1989)が総括的な地域論的分析を行なった。  今日社会的交通地理学的アプローチにおける課題として、計量的分析では表わし切れない史的展開過程や地域社会を制度・政策の投影面ととらえ、実際の地域への受容過程を、地域情報に基づき他地域と比較分析する試みが提起されている。すなわち、従来の交通経済学、交通土木計画学の射程外だった諸問題を検討する立場である。  また交通分野が政府の強い規制下にあり、さらに今回の廃止政策が法律に基づいて執行されたことから、国家的政策の決定過程や地域への受容過程を考察する上で行政学・行政史的視点が不可欠である。この意味で西尾(1987)による行政組織の行動原理の分析、森田(1988)の執行過程に関する視座の導入は、今後の官庁間の主張の調整(例えば運輸省・建設省関係論)を想定した局面にも有効だと考えられる。  したがって本研究では、存廃のボーダーラインにあった両線に関する中央及び地元レベルでの存廃議論の展開過程を取り上げ、判断の根拠や地元の対応過程の検討により、鉄道をめぐる地元の認識と行動を考察し、問題点を指摘することが目的である。  2)沿線地域の交通状況の変化  道東・道北は廃止対象路線が集中していた。池北線は十勝とオホーツク地域を結び人口10万の北見市を終点としており、名寄線はコの字型にオホーツク沿岸と旭川方面とを連絡し起点と中間に人口3万規模の名寄・紋別市がある(図1)。両線はともに 100kmを越える長大路線で、第2次対象線の中では輸送密度が池北線 943、名寄線 894(基準期間)と比較的高かったが(図2)、それは両線が歴史的に幹線ルートとして石北線開通まで道央と連絡していたことが背景にある。  モータリゼーション以前の北海道開発では鉄道が中心的役割を果たしたが、その後建設された鉄道はほとんどが局地的路線で、十分役割を果たさないまま廃線政策が実施された。大正期の改正鉄道敷設法を根拠に国鉄として地元の負担なしに建設された背景による。さらに地元自治体は、国鉄運営のままオホーツク本線構想を主張し、新線部分の第3セクター化の際の採算性も検討したが、いずれも沿線人口の減少傾向のため採算裡の運営には程遠い状況であった。こうした中、名寄線に接続した渚滑線等の行止り型の第1次対象線は、一足先に1985年バス転換された。  また転換政策の進捗期には、著しいマイカーの普及と道路整備の他、複数便化・ジェット化など道内の航空路線の整備が実施され、鉄道旅客の減少要因となり、廃止対象路線の輸送密度は軒並み大幅に減少した(図3)。その上全国的な都市間高速バスの拡大で、バスによる長大路線代替の困難性が急速に薄れた。名寄線関連では、1974年国道 273号線浮島トンネル開通に伴い、短絡ルートの旭川ー紋別間の都市間長距離バスの運行が開始され、所要時間・運賃ともに鉄道利用よりも有利になり、1日あたり 100人以上がバスに移行したとみられる(道北バス且送ソによる)。 2、中央の政策当局における鉄道廃止政策の展開  1)国鉄諮問委員会に伴なう赤字線廃止  1968年9月国鉄諮問委員会は、国民経済的視点に立脚し意見書(「ローカル線の輸送をいかにするか」)で、83線2600kmのバス転換を勧告した。この計画では1972年までの4年間に、30km以下の盲腸線を中心に11線 121kmの廃止にとどまった。これは各方面から様々な政治的「圧力」の他、ローカル線となる鉄建公団AB線の新設で、政策面で整合性を欠いていたことが原因である。  当時の転換では国鉄バスが代替した線区がみられ、廃線敷のバス専用道路化も一部で実施された。その結果停留所増設・便数増加等の利便性の向上効果が国鉄当局等により宣伝された。  2)国鉄再建法成立過程における国会論議と、特定地方交通線の処遇  国鉄再建法は、ローカル線対策と職員削減を最大の目的として提案された。  廃止対象線選定基準、転換交付金、対策協議会等の施策の基本方針は、いわゆる運輸省内の内規という形で、法案提出前からほぼ固まっていた。また前回の廃止政策の失敗を教訓に、基本方針は無修正のまま可決されるよう事務方により周到に準備がなされた。そのため法律で綿密に手続きを規定し、政令で適用条件を詳細に規定することで、強い強制力の保持と、政治的介入の阻止が企画された。したがってローカル線選定基準で矛盾点がみられたが、国会が関与できない政令での規定であったことや、国会審議中に具体的な線区名は公表されなかったため、追及の矛先は鈍らざるをえなかった。  したがって国会審議過程では修正が限定され、十数線の救済にとどまった。廃止対象線選定では特例を最後まで認めなかったのである。また、対策協議会の構成メンバーに学識経験者を付け加えられたが、早期から関連のバス事業者や一般住民代表をメンバーに加えることや、会議の公開、異議申立ての機会などは十分には盛り込まれなかった。むしろ「地方自治体をもって地元の意志ということにかえたい」との運輸大臣発言にみられるとおり、地方自治体のみに大きな発言権を付与した。これは地域交通の協議決定権を地元に委譲することに対する、運輸省側の抵抗による妥協の産物とも受け取れる。  3、地元レベルでのローカル線の展開過程ーー名寄線・池北線の場合  1)「長大4線」認定と存続運動の長期化  北海道では輸送密度の基準から、数多くの路線が廃止対象となるのは明白で、他府県にも増して強力な「運動」が展開された。北海道関係者が多数上京し、衆参両院で公述するなど、法案成立前から廃止対象線の減少を働きかけた。その結果、第4の除外規定  により釧網・留萌・日高線が対象外となった。  第2次対象線に政策の重点が移った1984年6月には、北海道の名寄・池北・天北・標津線と本州の2線は、強力な存続運動の結果廃止承認が「保留」扱いとなった。この保留措置は、協議会の中断とともに法令上は何ら規定のなかったもので、地元の抵抗の激しさを示すものである。その結果道内の4線は 100kmを越え気象条件が厳しいとの条件が認められ、「長大4線」と認定され処遇留保となったが、地元にとっては事実上の存続と理解された。長大4線は翌年再調査が厳冬期に実施され、バス代替が可能との結論に達し廃止留保が撤回されるという曲折を経た。  それに加えてこの時期、国鉄再建監理委員会により分割・民営化の方針が決定的となり、分割後の新会社の処遇が不明確になったこと、見切り発車条項により暫定運行の期限が迫り長大4線の統一歩調が取れなくなり、廃止前提の協議会参加が避けられない状況になったこと、などの状況変化があげられ、運動の推進力が鈍った。  2)政治決着と最終局面での地元決断  1985年8月の長大4線保留解除後も、対策協議会は開催されたが第3セクター化の目途や代替案が示せず、膠着状態が続いた。また第3セクター化に際して北海道の強力な支援が不可欠であり、地元は道案の提示を期待する以外に対応策はなくなった。  1988年になってようやく中央政界の政治決着を受けた北海道の提示案により、第3セクターで池北線が全線存続、名寄線は中間部をバス転換し部分的に存続するという1.5 線存続案に決着した。この政治決着の理由・背景は一切公表されなかった。  この案では道の出資額、要員の派遣、JR北海道による特例的な援助方策が盛り込まれていた。この結果それまで統一歩調を取っていた両線の対応に差異が生じ、短時間のうちに前者は存続、後者は鉄道廃止バス転換へと向かった。  両線での対応の差異がどこで生じたかは、明らかではない。マスコミ報道を総合すると、早くから池北線1線存続の方針は固まっていたが、政治的に収拾する方法として各選挙区の議員や存続運動に尽力した首長の顔を立てるため、沿線の断念を念頭にした政治的テクニックとして、名寄線の部分存続を提案したとされる。  なお両線における要因の微妙な差異として、池北線は10万規模の北見市により都市近郊的な輸送を有し、対帯広の幹線機能を有するが、名寄線では紋別などの人口規模は3万で少なく、コの字型のルートや枝線の存在は運行・合意形成面で不利に作用したことが指摘できる。とりわけ中抜き存続案で乗換の発生などで将来的な利用が期待できないことの他、1日2往復であった湧別町や、バス利用が進捗していた上湧別町は熱意が意外に乏しく、個々の自治体の事情の違いから出資が困難で、結果的に沿線自治体は合意できなかったわけである。さらに名寄線では1自治体あたりの負担額が2億円近くになったが、池北線では1億5千万円以内にとどまった点でも差異が生じたといえる。  4、ローカル線論議をめぐる地元の行動の特徴  1)期成同盟会組織による市町村レベルの運動における求心力  期成同盟会組織は受益を得ようとする地元自治体が連合して陳情など政治的に圧力をかけ、国の公共的事業の誘致をはかろうとするものであり、選挙での集票構造との関連が指摘されてきた。すなわち地元は中央からなるべく地元の負担なしに利得を得るため最大限の運動を行ない、大物政治家の強権発動による法令以外の政策関与を待望するという側面を持っていた。  一方ローカル線存続運動は、受苦回避の面で負の同盟とすることができ、また公害反対運動にみられる住民運動とは異なり、自治体政治運動の色彩が強いものであった。こうした同盟では異論は防止され、全自治体の全会一致による統一歩調を背景に、強力な求心力を保持した。しかし存続運動が長期化し意見対立が表面化すると、推進力は急速に衰えた。最終的には当事者の地元自治体側に息切れが生じたとも考えられる。  池北線の場合道の提示は全線存続案であり、将来的に不安が残りながらも沿線は一致して第3セクター設立へ向かった。一方名寄線では部分存続案であり、限られた転換交付金の鉄道とバス双方への配分が疑問視され、さらには沿線が存続地域と廃線地域とに分裂したので、地元軽視と反発が強まった。結束が必要な出資面でも利害対立で亀裂が生じ、比較的短時間のうちに部分存続を放棄し、バス転換を決めている。  この差異は、地元側が全線存続に固執し強硬な存続を主張した反面、最終局面まで次善の対案を出せなかったことから、実際の機能よりも体面を重視していたと考えられる。また地元のローカル線の現実機能の評価は、個々の事情を反映した地元益とともに、経営責任も含めた第3セクターへの支払い意思額に反映しているといえる。  2)道府県レベルの「思考」方針と行動様式  ローカル線廃止施策は、人気投票の性格を持つ政治にはそぐわないもので、正面からの廃止勧告はとても行なえないものである。したがって誰もが直接の攻撃対象にならないように決着させ、強制力を持たせる手法が取られる。今回の政治収拾案でも、1線存続の方針が貫かれたが、自民党・社会党の合意による決着や、北海道側の対応が終始副知事であったことなど、セカンドトップによるトップダウン方式が示唆的である。  また地域的鉄道交通政策は従来運輸省が独占していた関係上、道路の場合と異なり道府県レベルでは、ほとんど関与すらできない状況にあった。しかし今回の特定地方交通線転換政策で、出資問題を契機にはじめて本格的に取り組むことになった。  また地元重視の姿勢として道府県知事の意見書提出が重要視され、さらに九州の一部を除いて道府県レベルでの出資が第3セクター設立の成否を分けていたことからも、道府県レベルでの考え方が鉄道存続かバス転換かの命運を分けた大きな要因だとすることができる。また北海道が「1.5 線存続案」を出した背景には、池北線1線の50億程度に出資を押えたいとの判断が働いたものと考えられる。  5、転換後における両線の状況  1)転換交付金の使途と開業準備  第3セクターにより存続した池北線は、転換期限の切迫で出資金・基金の供出に奔走し、次の段階で車両購入・要員の配置を行なった。したがって開業後2か月はJR時代の暫定ダイヤでの運行となった。運賃はJR時代の1割増しと値上げ幅の圧縮で、バス並行区間では鉄道運賃が安価に設定された。転換交付金は初期投資費用以外の6割程度を基金に回し、当初から基金を3種に分け、長期にわたる存続を目指した。またJR出向者を含め、今後の地元雇用の場を創造したとも解釈できる。ただ運行本数の増加に伴う踏切事故の頻発が問題であり、何らかの公共的金銭的支援が必要である。  他方廃止された名寄線は4社で代替バスが運行され、運営協議会で要望の取りまとめが計られた。基金は交付金の半額程度で、初期投資・転換促進費・定期券差額補助に使用している。  2)跡地利用をめぐる今後の諸問題  廃止後名寄線沿線では、鉄道跡地がJRから地元自治体に売却される。鉄道用地は形状が細長く土地利用が困難で、町の中心駅では市街地中心部に広い面積の空白が生じ、各市町村は対応に苦慮している。全般的に跡地利用ではバスターミナル、公共施設、商業施設、公園緑地が考えられているが、沿線の地域経済は停滞気味で、既存商店街の他に新たな商業施設は購買力の面から難点が多く、公共施設も既に整備が進んでおり、これ以上の建設は重複になるとの危惧もみられた。計画の全面改定を迫られた紋別市の「オホーツクニューシティー計画」の総額は52億円の規模に達する。概してバス転換された地元自治体の持ち出しは、当面は池北線より低水準だが、跡地利用面を含めたトータルの出費額では規模が大きくなることが予想される。  一方存続した池北線沿線では宿舎・貨物跡地を含めた駅舎改築計画を進め、公園整備とともに街の中心機能を高めようとしている。本別駅では沿線市町村をイメージさせる幻想的な駅舎とし、売店の他コミニュティセンター機能を付加させている。公共施設としては計画規模・財政負担的にも廃止された沿線に比べ、適正な水準と言える。  3)鉄道の価値に対する社会的認識とマスコミュニケーション  鉄道廃止での議論では、実質的な経済的機能よりも利用の有無にかかわらない存在価値が強調され、寂しくなる、マチのイメージが低下する、などのいわば心理的・文化的問題が強調された。モータリゼーションの浸透で、公共交通機関の利用が交通弱者に限られていることを、地元住民がよく知っているからである。  しかし一方で鉄道への特別の思い入れが存在し、街おこしの一手法とも認識されている。それはたび重なるマスコミ報道による世論形成と、実際に鉄道の利便性を享受する大都市住民の思考に関係している。実際マスコミ報道は、存続運動初期の大きく感情的な取り扱いに比べ、最終局面での取り上げられ方は地味で小さく、移り気な姿勢がみられる。  また第3セクター鉄道のイメージ重視の姿勢は、池北線転換後の名称「北海道ちほく高原鉄道・ふるさと銀河線」や、車両・駅名板・駅舎等にみられるCIを意識した統一デザインの採用に表われている。沿線が著名でなく、銀河・星、ふるさと、にみられる新たな価値付けによるイメージアップと、支援組織として振興会議と友の会が組織されている 。  6、結語  以上考察のように、池北線・名寄線の事例を通じて、特定地方交通線の存続・廃止は、各レベルにおける政治的決定や地元運動母体の態様、さらに支払い意思額などの要因が複雑に作用したものであり、かなり微妙な点で差異が生じたと指摘できる。またマチのイメージなど現実の機能から乖離した議論やマスコミ報道によって主導された面が大きい。両線における今後の変化や、モータリゼーションの進展を注意深く追跡する必要があろう。 最後に転換に際し検討されなかった点を、若干指摘する。  まず第一に、廃止対象の鉄道に関連して地元自治体は独自の交通実態調査を十分に実施しておらず、事業者サイドのデータのみで判断したり、競合交通手段との乗り分けの状況、自動車保有・運転免許保有状況などの検討が不十分だったケースがみられる。  第二に、地元住民の意思確認のためのアンケート調査や住民投票が十分とはいえない局面があった。マイカー保有者が多く、多数決原理では地元負担面で廃止に同意する住民が多いと自治体側が判断していた可能性もある。  第三に、北海道ではかつて殖民軌道(戦後は簡易軌道)が敷設されていた。この制度は運輸省所轄ではなく北海道開拓予算で行なわれ、献身的な地元の運行協力会が運行管理を行なった。仮に北海道の特例が必要なら、制度として検討の余地があった。しかし北海道開発庁の態度は意見を述べるだけで、資金拠出面で消極的であった。  第四に地元は、実効性が疑問視されたまま地元居住者対象の乗車促進運動(運賃補助)やイベントしか行なず、国鉄周遊券利用者等来訪者対策が十分でなかった点が指摘できる。今後周遊割引などの利用促進が運営上不可欠であり、JR北海道を含めた一層の協調が求められている。  調査にあたってご協力頂いた各方面の方々、発表当日に貴重なご意見を頂いた諸先生方に謝意を表します。 注1)この時は国鉄と地元自治体の間で随意交渉し、転換が合意された場合は個々に国鉄が大蔵省に転換促進の交付金を予算要求し、バス購入等に充当した事例も見られた。 注2)例えば廃止政策推進のため国鉄営業線区の区分が実施され、幹線系、地方交通線、特定地方交通線に区分された。政令制定にあたって単純な統計的指標を全国一律に機械的に適合させ、多少の不合理を承知で極力例外扱いを避けた。また従来国鉄部内で行なわれていた線区の区間毎の細分なども、考慮しなかった。  この点について1970年10月22日の衆議院運輸委員会で、三浦久議員が廃止対象線選定方法について質問し、美濃赤坂線と樽見線の例を引きながら「同じ枝線でも東海道本線に入っていれば本線だから助かってしまう」ことや、国有鉄道線路名称が昭和24年以来81回も変更がなされ、とても基準にできないと追及した。政府委員(運輸省)、説明員(国鉄)は答弁できず、塩川運輸大臣が「さすがばヘテランの運輸委員の先生でよく研究されている、確かにそういう問題はあるなと拝聴しました」とした上で、「国会で御審議頂くのは政治としての方向、基本を決めていただき、その他の諸問題は政府内の機関できちっと決めたい」として、論議は終結した(衆議院運輸委員会議事録)。 注3)国会審議過程における選定路線の修正は、第4の除外規定として平均乗車距離30km以上の条項の追加等に限定され、その結果道路法における北海道特例規定との関連で追及された、北海道の支庁間を連絡する路線など全国で十数線が救済された。また法案成立後、深名線についてはきわめて輸送密度が小さいにもかかわらず、代替道路未整備を理由に国鉄側が1982年11月廃止申請を行なわず、現在もJRが運営している。 注4)本州の岩泉・名松の保留2線は再調査の結果、承認取り下げで現在もJRが運営している。またこの際道内で羽幌線は、長大4線と同様に 100kmを越えながら保留されなかったのは、沿線全線にわたって沿岸バス鰍ェ1社で運行されていたことが背景にある。 注5)現在このような運動の中心は、大きな道路特定財源を抱える道路整備事業を筆頭に空港・新幹線などの交通基盤の建設・整備、さらにはリゾート法指定や国定公園昇格運動に移行しているが、国鉄再建法成立以前には改正鉄道敷設法を根拠とするローカル鉄道建設に力点が置かれていた。 注6)これは両線とも現実には利用実態が地域界となる分水嶺区間で落ち込んでおり、部分存続の合理性が否定できない面もある。全国的に特定地方交通線転換で部分存続の処置がとられていない。それは同盟の態様に起因したものと考えられる。 注7)前者は沿線自治体による鉄道利用者への便宜供与の他、鉄道側への改善要望の窓口を果たしている。後者発案のきっかけは、知床1坪運動におけるナショナルトラスト的発想で、全国に募った会員数は当初の見込みを上回り道内はもとより全国から1500人を数え、都会住民の鉄道への郷愁を具現する機能をも担っているといえる。 注8)建設・改良については開墾建設事業として北海道開発局直轄により全額国費で、維持補修は北海道庁農地開発課の7〜8割の補助事業で行なわれた。この方式で北海道開発庁がインフラ補助を行ない、第3セクターが運営を行なうことで、地元負担額の軽減の可能性があった。 注9)この際勧告を受け、同年12月自民党政調会国鉄財政再建懇談会から「地方交通線の整理要綱案」が公表された。この中の内容で後の国鉄再建法による施策との相違点は、@「閑散線」の選定基準が1日1kmあたり旅客6000人・1500t以下で停滞・減少傾向にある、A関連市町村への交付金は1kmあたり旅客 300万円、B地元が存続希望の場合、欠損額を5年間は国が半額、沿線町村・道・国鉄が 1/6ずつ、それ以降は全額地元で負担する、である。この時も、地元負担が沿線に鉄道廃止を決断させる要因となった。また、交付金は10年間で10倍になったことがわかる。 注10)国会審議過程における選定路線の修正は、第4の除外規定として平均乗車距離30km以上の条項の追加等に限定され、その結果道路法における北海道特例規定との関連で追及された、北海道の支庁間を連絡する路線など全国で十数線が救済された。また法案成立後、深名線についてはきわめて輸送密度が小さいにもかかわらず、代替道路未整備を理由に国鉄側が1982年11月廃止申請を行なわず、現在もJRが運営している。ただ政策終了後の現在、同線の駅廃止が十分な合意なしに進められており、近い将来再び路線廃止が取沙汰されよう。 注11)鉄道存廃で最後までもめた九州の高千穂線の場合も、鉄道の役割をめぐって自治体間で第3セクターへの支払い意思額に相違が生じ、議論が中断した。結果的には、バス転換に傾いていた北方町が、宮崎県のより踏み込んだ経営支援策(県の負担を 1/2以上とし、地元市町村の負担分の軽減、副社長の擁立)を取り付け、第3セクターでの存続が決定した。 参考文献 森田 朗(1988):『許認可行政と官僚制』.岩波書店,321p. 西尾 隆(1987):『日本森林行政史の研究』.東京大学出版会,361p.