(北海道地理67 掲載論文 1993)  国鉄改革で北海道の鉄道事業はいかに変化したのか   ー改革5周年を経過してー    武田 泉(北海道大・環境科学・院)  T.はじめに  1988年11月、新装なった高架の札幌駅をステンレスボティの新型電車が走り抜け、翌年津軽海峡を抜ける青函トンネルの完成で、本州直通の豪華寝台特急や貨物スーパーライナーが走り始めた。1992年2月、札幌駅は高架完成後3年4カ月で乗降客2億人を達成した。一方で1988年11月、最後まで処遇が決まらなかった名寄線の全線廃止が地元自治体の手で決断され、鉄道の空白地帯となった。また国鉄週末期には多くの路線で極限まで合理化され、交換可能駅の削減や、駅員の削減・無人化、ワンマン運転化で、非採算部門の惨めな結末を再認識する局面も存在した。つまり国鉄改革政策は、北海道の鉄道事業の特色が、スクラップアンドビルドが急速に進展し、改善進捗分野(都市間幹線輸送)と、衰退分野(ローカル線輸送)とに、事業を極度に峻別する政策だったと理解できる1)。  北海道の鉄道事業が、外見上国鉄改革で大きく変化したことは間違いない。しかし、変化をメカニズムとしてとらえることには困難が多い。本稿では北海道における旅客鉄道事業の変化を公表された各種資料により展望し、新会社の事業インセンティブ面を中心とした課題を検討することを目的としている2)。また論文末には、北海道の鉄道研究に資するべく文献目録を掲載することにする。  U.北海道における国鉄改革の概要  1.国鉄改革の手法  特殊会社化:国鉄時代末期には、北海道など本州以外の国鉄路線は採算性において自立運営には程遠い状況にあり、特に内部補助の観点から問題視されていた。そうした中、第二次臨時行政調査会設置以降に展開された日本流の「規制緩和」論議では、「規制」そのもの、中でも「公共企業体」形態が改革の矢面に立たされた(松並,1992)。1986年7月に発表された国鉄再建監理委員会答申(意見)では、北海道の鉄道は分割の上民営化され、北海道会社は「三島会社」の一つと位置付けられ、私鉄型の効率重視の運営と三島基金により収支均衡させるものとされた。貨物事業については、全国一社の貨物会社(北海道支社)に引き継ぐことが示された。再建監理委が提示した新会社の経営形態は、公共企業体の国鉄(公社形態)から株式会社組織の特殊会社3)に変更することで、事業運営面からの正常化を計ろうとしたものである。  特殊会社「JR事業」の不明瞭さ:当初、国鉄改革後の新会社のイメージとして大手私鉄の事業展開が念頭にあった。しかし実際には、株式の一般公開は「本州」会社も含め実現しておらず、労使それぞれの私鉄総連や民鉄協への加入等にみられるような一般の私鉄と同様な形態への変革ではなく、特殊会社・JR事業という新たな鉄道運営の領域が形成されたのであり、今回の国鉄改革の特色をこうした改革の不徹底な点4)はむしろ政策当局による妥協の産物として見ることができよう。  「国鉄色」を残した人員構成:当初、採算性が疑問視される事業は民間がとても引き受けないとされた。しかし設立された新会社の経営陣は、会長職は外部の実業家を起用したものの、社長職では本州会社が常務理事クラス、三島会社が当地総局長クラスであるなど国鉄最終段階での役職・人事を固定して充当され、ほとんどが国鉄職員のスライドしたものである。人員削減の至上命題のもと雇用確保を実現するためには当然の成り行きであったが、国鉄「職員」が新会社「社員」に「豹変」し、意識改革が進んだことは良くも悪くも予想以上のことであった5)。  2.組織面での変化  新会社の組織:私鉄型効率的運営を目指すべく、職能別・縦割りの構造から、企画部門の独立と事業本部を併置した構造5)へと変化した。この結果、現業を含めた鉄道運営部門は部課が統廃合され、営業・開発等と同等の1事業本部に過ぎなくなった。確かに北海道の鉄道運営の決定権が東京から札幌に移ったことの意義は大きい。しかし、かつての道総局から本社となった札幌の権限がの拡大した一方、旭川・釧路・函館では鉄道管理局が支社となり、意思決定・企画立案等の上位の決定権限が札幌本社に吸い取られたケースも見受けられる。  人員削減問題:改革の背後で見逃せないことは、余剰人員として多数の鉄道職員が鉄道からの離脱を余儀なくされたことである6)。国鉄改革の大きな論点が「雇用調整」にあり、国労等の強力な労働組合のパワーを変質・低下させたことは紛れのない事実である。このことは、一面で鉄道事業における労使関係の正常化に寄与したが、他方で採算裡の運営が困難な北海道などの「三島」地域においては、地域に大きな問題を突き付けることになった。とりわけ、鉄道員が雇用の中心的存在にあった町では生産人口の流失が顕著で、追分・音威子府などの「鉄道の町」では、街の存亡にかかわる事態となった。新事業体への移行時には、新会社採用あたっての組合差別や、「人材活用センター」への配置が実施された。特に後者は、雇用調整が強力に実施された道東・道北の「鉄道の町」に多く設置された。「新会社に残れたのは要領の良かった人だけだ」との声もあった。清算事業団を解雇された旧職員は、地元会社への再就職を求めて「闘争団」を組織し、アルバイトをしながら中労委の仲裁裁定を目指 した。しかし今日でも解決の糸口は見られず、国鉄改革の「暗部」を後世に引きずる結果となっている。  V.JR北海道新会社の鉄道戦略  1.列車運行・車両  列車運行形態の変化:短い編成で高頻度の運転を行なう形態に変化した。このため、高架の札幌新駅の基本設計は変更され、コンコースやホーム短縮がなされた。また小樽方面から千歳方面への直通運転が増加し、頻繁に増結分割が行なわれ、停車時間も短縮された。客車列車の廃止で、座席定員は減少傾向にある。  車両面での改善:JRは積極的に新型車両を導入しているが、特急電車、快速・近郊型電車をはじめ、特急気動車、一般型気動車がある。改造車両としては急行用気動車、客車改造一般型気動車、リゾート車両があり、事業者のインセンティブの差異を示している。  2.新たな高速鉄道(新幹線)への対応  ー青函トンネル・対本州輸送  青函トンネル論議と実現した運行形態:北海道は首都圏の遠隔地にあり、今日旅客輸送では航空機が圧倒的なシェアを占め、鉄道の役割は限定的である。したがって、対本州輸送(青函トンネル・北海道新幹線)の役割も大きく様変りした。トンネルの利用方法をめぐって、極論の建設中止(国民経済の観点)も含め、国土交通軸(今野、1983)、長期的社会資本整備(藤井、1985)、開通前での想定列車運行形態(野焼、1983;曽根、1983))議論がなされた。このうちカートレインは、開業が現実のものになってからはいまだに実施されていない。  北海道新幹線計画の停滞:北海道新幹線は整備新幹線の1つで、その取り扱いは政府・自民党の判断に委ねられているのが実情である。1993年夏には整備新幹線の計画見直しが予定されている。  北海道新幹線実現への障害は、次の5点が考えられる。@新幹線効果への疑問(利用率・採算性)、A新幹線青森延伸の規格が未決定(フル・ミニ・スーパー特急)、Bルート未決定(長万部〜札幌間)、C新千歳空港アクセスリニアへのこだわり、D空港(高速道路)整備の進捗(他県よりも相対的に)。とりわけ北海道内でも地元で利害対立があり、全体的な意思統一ができていない点(ABC)は、北陸・九州と比べ地元自治体(道)の取組みが弱いと批判される根拠になっている。近年では、北東北の2県とともに期成同盟会が東京キー局のテレビコマーシャルを放映したが、イメージのみが先行し、在来線廃止問題など実態が伴っていないといえよう。  ここで筆者案を述べておこう。まず第一に、スーパー特急規格で札幌〜新千歳空港間の先行建設を緊急に行なうことである。第二に、建設コスト圧縮のため、将来的にフル規格に変更でき一部区間の在来線利用や貨物列車との共存が可能なスーパー特急規格とし、一部単線で建設(羽越線方式互い違い複線)などの方式を取り入れることである。第三に、制度を変更し、道路予算道路用地の活用や建設省関連の公共事業も取り入れ、国土軸論議での理論武装と北海道特例のアピールを中央にむけて行なうことである。さらに第四に、今のうちから道民との対話を進め、困難が予想されるアセスメント実施に向け、自然保護団体の反対を回避することも大切である。  実際の列車運行形態(青函トンネル〜千歳〜札幌ルート7)):重要なこのルートでも、五稜郭・東室蘭間はいまだに未電化で、単線区間もかなり残されている。これは国鉄時代の近代化投資で冷遇されため、整備がいわば「継ぎはぎ」状態であり、運行可能な列車の種別(電車・気動車)が限定されている。  課題の多い津軽海峡線:まず昼行列車では一部を除き、連絡船時代と同様に青森・函館両駅で乗り換えが必要で、改善が十分とは言い難い8)。次に青森函館間はほぼ2時間以上を要し、通勤通学は不可能で交流促進に至っていない。さらに五稜郭東室蘭間の電化計画はなく9)、本州から高性能の電車列車が札幌への直通運転ができない。その上列車運行では、倶知安経由の優等列車、常磐線経由の列車、弘前・八戸・仙台・新潟・横浜行きの列車設定がなく、ルートや行き先の面で本州直通列車に改善の余地がある。東京直通の寝台特急運行に当たって、寝台車の個室化や食堂車のレベルアップと同時に、当初は飛行機の往復利用より1万円安い往復割引切符が発売されたが、予想外の北斗星人気で1991年に発売が中止されている。これらはJR東日本の対応も大きく影響している。こうした状況から、青函ンネル輸送の時間短縮効果は、むしろ貨物列車の方が大きいといえる。  重要度を増す千歳線:札幌近郊の千歳線は、本州連絡機能(旅客・貨物)をはじめ、道内都市間輸送・札幌都市圏近郊輸送・(新)千歳空港アクセス輸送 10)と、多様な機能を有すると同時に近年重要度を大きく増し、道内で採算性が最も高い。特に新千歳空港オープン後は、快速エアポートが一挙に50本余り増発されたため、列車ダイヤは副奏している 11)。  3.都市間高速バスとの激しい競合   ー道内都市間幹線輸送ー  都市間幹線輸送の苦悩(料金とアコモデーション):新幹線を持たない「三島」会社では、本来競争力を持つべき都市間幹線輸送が、マイカー・高速バス・航空機など他の機関との競合が激しく、苦戦を強いられている。鉄道輸送の沈滞と鉄道の施設整備だけが抑制された中、競合する交通機関がインフラ整備を背景に所要時間・価格を有利に設定していた。そこへJRが強いインセンティブで輸送シェア確保にあたろうと、激しい競争を挑んだといえる。しかしJR側はセグメント別に対応していて、区間によって改善度がかなり異なっている。最も力を注がれたのは、道都札幌と道内主要都市(函館、旭川、帯広・釧路など)を結ぶ主要3ルートの幹線輸送である。  昼行便のケース(札幌旭川、帯広間):鉄道の改善だけでなくJRバス参入で防衛を試みた再重要区間である。まず札幌旭川間では、1990年秋の道央道旭川鷹栖IC開通を控え、鉄道側では軌道強化等の改良を実施し、ダイヤ改正でエル特急を30分間隔・ 130km/h運転に備えた。その上、料金をこれまで以上にディスカウントし、普通運賃とほぼ同額としたSきっぷ(往復・回数券)を発売した 12)。この結果同区間の利用シェアを確保し、エル特急乗客の大多数がこのSきっぷを利用して乗車するようになった。さらに北海道中央バスが単独運行していた札幌旭川間の高速バスを増便の上、JRが道北バスと共に参入した。  札幌帯広間でも、1991年の短絡ルートの国道 274号線全面開通を前に特急「とかち」に2階建て車両を投入し、ほぼ1時間間隔にした。高規格の石勝線を活用し、新設計のリゾート特急車両投入で、活性化が図れた。今後は札幌函館間に新型車両(強制振り子式)を投入することになっている。  夜行便のケース(札幌室蘭、網走、稚内間等):上記よりも区間が長く、対策も施設等ハードの改善は見送られ、ソフト面での対応が中心になった。宗谷線急行は改造車両で対応され、夜行列車は気動車に寝台客車を併結し車両運用を改善するなど、投資額を切り詰める傾向がある。その代わりドリームカーや女性専用席、ドリームきっぷの導入などで高速バスに対抗している。  4.新たな採算分野ー札幌圏都市圏輸送ー  札幌圏輸送の急激な変化:従来地方の国鉄路線では、普通列車は都市間優等列車の合間に付随的になされていたに過ぎなかった。そのため駅間が長く列車本数が少なく、都市圏交通として十分に機能していなかった。新駅設置や増発などによる地方都市近郊輸送の改善が緒についたのは、国鉄改革直前の1986年とつい最近のことである(武田他、1992)。札幌圏 13)で一挙に3駅が新設された琴似・手稲間では、鉄道開通後 100年間も駅間が7.6km と長いままで放置されてきた 14)。  急激に乗客を増やした駅:百万都市札幌への道内における一極集中を背景に、市の外縁部での宅地開発による人口増加等に対応して輸送人員が伸びている。特徴的なのは、札幌市東部で隣接する厚別(函館本線、既存駅)と新札幌(千歳線、1973年新設)の乗車人員が、1978年に一日平均2500人余りで逆転し、1991年には小樽に次いで道内第4位の7774人に成長した。これは新都心形成が大きく影響している。また、乗車人員道内第2位の手稲(一日平均 12562人、1991年、混雑のため再改築計画あり)に対し、隣接する稲積公園(1986年開業、当初は無人の乗降場)では、新駅の中でも伸びが著しく、苫小牧を上回る道内15位(一日平均3961人、1991年)にまで成長した。近年は快速列車の増発で、豊幌・幌向付近の宅地開発が際立っている。  札沼線(現学園都市線)の変貌:1970年代に全線廃止も検討された札沼線は、今日では学園都市線の愛称のもと、宅地開発が急速に進んだ札幌市北部で輸送量が急速に伸ばし、単線では列車ダイヤが副奏するまでになった。線内で乗車人員最多の駅は東篠路で、現在はあいの里教育大・釜谷臼の伸びが著しい。既に鉄道高架の延長が決定し、さらに複線化を念頭に道内初の鉄道整備基金・無利子貸付(約 149億円)に採択の見込みであり、都市鉄道への脱皮が急ピッチで進んでおり、状況が一変した。当時札沼線が全線廃止されたら今日の「あいの里」は実現しなかったのである。長期的な判断の難しさを示している。  5.非採算部門の合理化  ローカル線運営組織(運輸営業所):JRの特色として鉄道運営のセグメント化・差別化が挙げられる。ローカル線のうち廃止対象とされた特定地方交通線は、長大4線(保留扱い)が暫定的に新会社が引き継いだが全て廃止され、路線延長2629.5kmと道内でもかなりの鉄道空白地域が生じた。  JRに残されたローカル線は一層の効率化が迫られた。新型車両導入(日高線)などの輸送改善も実施されているが、合理化・効率化の意味合いがむしろ強く 15)、幹線主要3ルートとの落差が著しい。さらに組織的に保線・運転・営業などの職能を越えた人事交流で人員削減を図り、権限委譲をも行なうべく運輸営業所が設置された。現在では日高線、花咲線(根室東線)、宗谷北線に置かれている。しかしながら鉄道運営が困難なことには変りなく、ワンマン化や駅無人化、乗降場廃止、さらに駅舎建て替えや運営の地元負担も推進されている。廃止を免れた深名線では、事業者にとって不本意な存続だったため、現在一日3〜5往復と消極運営しており、廃止時期を窺っている形跡がある。  W.バス・関連事業  直営のバス事業:バス事業は自動車事業本部の運営で、国鉄から継承した路線は過疎地が多く、営業所は散在している。このうち札幌近郊では系統の新設なども実施されているが、その他では路線廃止の狙上にあるものもみられる。そのため貸切輸送、高速バスへのシフトが課題で、函館営業所の設置や、スキーバス・ツアーバス・送迎バス等に積極的に参入している 16)。  船舶事業からの一方的撤退:青函連絡船はトンネル完成で廃止され、船舶事業は終焉を迎えている。この時期、東日本フェリーが対本州航路を新設しており、またJR九州では、新たに高速艇「ビードル号」でハウステンボス、韓国釜山への参入を果たしている。JR北海道も、函館対本州間航路(例えば新潟柏崎)などへの進出で、本州客の誘致も考えられてよかったのではないだろうか。現在函館港は、運輸施設としてではなく観光施設・シーポートプラザととして活用されている。  関連事業の形態:従来国鉄は、公共企業体として国鉄法により鉄道事業以外の関連事業への進出が厳しく抑制されていた。国鉄末期から国鉄は次第に関連事業に参入していったが、国鉄時代からの事業が母体となって事業が展開され、今日では将来を担う事業として事業本部が置かれている。これらは、売店・飲食店・コンビニエンスストアなどのディリー型、建設業・建築士事務所などの技術・権益活用型、損害保険・広告代理業や駅ビル・不動産などのサービス新規参入型に分けられる。好評の車内月刊誌「JR北海道」の発行も手掛けている。しかし事業規模は、1990年策定の中期業務計画どおりには進捗しておらず、課題が多い。  地区外での旅行業の展開:本州には本社機能を有す東京事務所の他営業所が置かれ、その他に旅行業本部によるJR北海道プラザ(東京・大阪・横浜・仙台・青森)では、航空券販売・集客などの営業拠点となっている。また道内では駅旅行センター(ツインクルプラザ)の他に、トラベルセンターが鉄道廃止地域や札幌市内に設置されているが、一部の店舗には撤退したものもある。  観光・サービス業への参入:こうした関連事業は、大手私鉄資本の経営多角化の典型で牽引車であったことから、JRも新たな事業展開を期待している。リゾート開発 17)ではJR北海道は、キロロ・十勝岳などの大型開発にいち早く出資し、大沼では子会社・クロフォードを設立してホテル建設を手掛けようとしている。しかし大沼開発は単独ではなくJR東日本との共同事業であり、「三島」会社の弱さとも受け取れる。  X.今後の課題  誌面と情報が限られた中で、国鉄改革後5年を経過した北海道の旅客鉄道事業の動向を各方面から検討したが、次の2点により本稿の結びとしたい。第一点は、北海道新幹線が本当に実現するかである。上述したような建設制度の改革は長期間を要するため、今のうちから各主体が積極的に対応する必要がある。第二点は、JRが関連事業を拡充していく中で、採算性の評価基準だけで鉄道事業の合理化を進めていいかという観点である。これは、組織内部での現業職員の士気や安全性に関わる問題といえよう。 注 1)国鉄改革では、鉄道事業が国鉄期の巨額の長期債務から開放され、特にJR本州3社では改革の結果鉄道新時代を予感させた。厳しい経営が予想された「三島」3社でも、新会社が5年間に達成された成果には華々しいものがあり、確かにテレビコマーシャルがたびたび流れ、ハッピを着てイベントに精を出す社員の姿などは、国鉄時代には見られないものだった。しかし、5年間のこうした成果が、バブル景気を背景にした一時的な現象かどうかは、今もって判断が難しい。 2)国鉄改革後のJR各社は、民間企業であることを理由に秘密主義が徹底するようになり、一方的に事業者の都合の良い情報が意図的に流されたり(いわゆる大本営発表のちょうちん記事や、株式上場に向けた株主への経済情報の提供)、一般の私鉄よりも情報量が少ないケースもある(輸送量などの鉄道統計)。また、一般乗客からの声(グリーンボックス)や「応援団」の意見聴取もあるが、後者のメンバーはタレントなどで具体的な論議がなされていない。概して、事業者側に都合の良い情報のみが取り上げられている傾向があり、情報公開面で問題が少なくない(JR各社に共通して言える)。 3)事業には公共性の度合いにより、完全な公的主体(官庁等)から、市場メカニズムを貫徹でき株式を上場する一般の株式会社まであるが、中間形態として公益事業(第3セクター)があり、公共性確保を目的に政府の規制が強くが民営で効率的運営が要請されている。こうした事業形態には、公社(公共企業体)・公団・事業団・営団等があるが、JRや電力事業などは、株式会社組織で政府の監督が比較的厳しい特殊会社形態を採り、少数の大規模事業者が大きなシェアを占めるという特色がある(岡野、1990)。 4)規制者である政府・運輸省にとってJRはかつての国鉄という身内であり、本来的に「監督」ができるかは、組織の歴史的背景から疑問も指摘できよう。 5)よく言及されるのは接客態度だが、国鉄末期に当時の旭川局管内の現業職員が胸に「まごころ」ワッペンを付けるなど、悲壮感さえ漂っていた。それ以降民営化後も継続・改善され、オレンジカードや北斗星グッズの販売に必死に取り組んでいる。 6)北海道内の国鉄改革による雇用調整とその問題点については、山本(1991)に詳しい。7)北海道内の鉄道路線では、歴史的に形成された路線名と実際の運転系統とは異なった形で今日機能している。道都札幌から道内の主要都市を結ぶのは、次の主要3ルートである。@青函トンネルから函館、東室蘭、南千歳を経て札幌に至るルート(津軽海峡・函館・室蘭・千歳線:仮称「北海道本線」)、A札幌から旭川方面(函館線:仮称「道央本線」)、B札幌から帯広・釧路(石勝・根室線:仮称「道東本線」)。 8)青森・函館間の運行本数は、電車特急よりも客車快速(連絡船代替)の方が多い。背景として全国的に余剰した客車(50・51系)と交流電気機関車の有効活用を図る目的と、連絡船代替のため運賃料金を圧縮する意図があった。このためトンネル利用の時間短縮効果が減少した。 9)幹線で未電化区間を抱えるJR四国では、自社資金で予讃線を電化させた。北海道では新幹線との兼ね合いからか電化のインセンティブに乏しく、四国ほどの危機感がない。10)当時の高木国鉄総裁への直訴を契機に、1980年千歳線に千歳空港駅が設置された。当初はアクセス専用列車を運転せず、空港利用客は割引のエアポートシャトルきっぷで特急列車に割り込ませて対応していたので、混雑が激しく運行間隔が不規則だった。新ターミナルビル開業後の地下引込み新線の建設で札幌方面へは大きく改善された鉄道分担シェアを拡大したが、苫小牧・追分方面へは乗換が必要になり利便性が悪化した。 11)快速の止まらない恵庭では、列車通過待ち(2本抜きも多い)で札幌への到達時間が延びるなど、利用者の反感を買っている。 12)スピードアップのため待避線増設(厚別駅)や曲線改良(江別・幌向間等)が実施された。また、企画乗車券類の割引率は3〜4割引に達し、エル特急利用者の相当数が利用している。なお道内における鉄道と高速バスの競合については、佐藤・五十嵐(1986)や佐藤(1986)が詳しい。 13)今日、札幌30〜40km圏の近郊輸送は、30〜40km圏の小樽(函館線)、千歳空港(千歳線)、岩見沢(函館線)、石狩当別・大学前(学園都市線ー札沼線)の4方向である。 14)市営地下鉄東西線の計画時には、JRとの競合は全く考えられていなかった。このため、延長予定区間ではJR新駅と直接競合することが予想される。 15)国鉄末期にはローカル線の交換駅を極限まで廃止したことから、柔軟性のある列車ダイヤが組めなくなった。特に日高線(末端部の33kmには一個列車しか入れない)・宗谷北線・函館線(長万部〜小樽間)が指摘される。日高線では、苦肉の策として休日ダイヤが導入された。 16)高速バスには札幌小樽間、札幌帯広間、札幌旭川間、札幌キロロ間、札幌小樽間(札幌北IC経由)に参入していて、札幌小樽間以外は、中央バスなど他社との共同運行である。また札幌テルメ、登別・洞爺湖温泉、旭岳(現在中止)への送迎バスも運行されている。 17)国鉄時代に札幌鉄道管理局が石勝線開通を契機にトマム開発をもくろんだ。しかし、国鉄改革や大幅なローカル線廃止を前に第三セクターへの出資が断念された。国鉄本社の強い意向で地元が折れて断念に至った形跡がある(武田、1993)。その後民間開発が進んだが、JR北海道にはリゾート列車など輸送部門のみに役割が限定され、せっかくの新規事業参入の芽をとられた格好になった。  参考文献(北海道の鉄道交通文献目録) *執筆者によるもの 武田泉(1991):北海道における鉄道廃止政策の展開と沿線地域社会ー名寄線・池北線の 事例を中心として.交通学研究1990年研究年報,63 〜74. 武田泉(1992):駅が招いた通りと街並み.札幌市教育委員会編「さっぽろ文庫58 札幌 の通り」所収,74 〜88. 武田泉他(1992):鉄道新駅設置と輸送改善.モビリティ(運輸経済研究センター)1992 年春号. 武田泉(1993):リゾート開発の展開と地域の対応ートマム開発を事例としてー.林業経 済532,21〜26. *鉄道事業全般・整備新幹線関係 曽根悟(1983):狭軌鉄道の高速化ーハード、ソフト両面からのアプローチ,運輸と経済 43-3,23 〜32. 近藤喜代太郎(1986):「国鉄きっぷ大百科」日本交通公社,327p. 曽根悟(1987):「新しい鉄道システムー交通問題への新技術」オーム社,110p. 三菱総合研究所(1988):「整備新幹線の効果に関する調査報告書 その1〜8」,35p,123p,33p,84p,24p,45p,40p,30p. 川島令三(1988):「新幹線事情大研究」草思社,256p. 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