武田論文集(北海道教育大学 僻地教育研究50 1996)   過疎地域(僻地)における地域課題としての地域振興策  ー幌加内町における鉄道廃止問題と大学との交流を手掛かりにー                     武田 泉(岩見沢校地理学研究室)  1、はじめにー教育問題の背景としての過疎地域(僻地)の概念ー  我が国は、戦後の高度成長社会・工業化社会の到来に伴い、就業人口を中心に村落から都会への大規模な人口の移動が生じた。経済効率優先の経済政策もあって、人口の偏在は過疎疎密問題を生じさせ、社会生活の様々な局面において生じる不均衡を固定化してしまった。可処分所得の増大やモータリゼーションなど交通・通信技術の急激な進展により、確かに田舎の村落でも表面的には都会並みのライフスタイルを享受が可能になった。とはいえ過疎地域(僻地)では、日常生活上の利便性をはじめとする、埋めることのできない格差が生じている。  いわゆる「僻地性」の要素として、人口の減少する過疎地域としての一般的な特徴の他、辺境性(中心的な都市地域からの遠隔性・乖離度)や隔絶性(山地・海などによって隔てられる度合い)が含まれる。内陸僻地ではなく半島・島の場合は、隔絶性がさらに強化され「島よ性」として現われる(しかし、架橋等によって島が陸続きになった場合、島よ性は解消される)。こうした過疎地域(僻地)には、以上のような特徴が集中的に現われる「極」が存在し、そうした地域では極端な人口流失が挙家離村を生じさせている。北海道内は、首都地域からの遠隔性ゆえ、このような「極」状況を強化させる傾向が強い。さらには自治体としての存立さえが危ぶまれる事態も生じ、地域は崩壊の危機を迎えることにもなりかねない。旧産炭地域のような、社会経済状況の激変に伴う事態によっても、地域崩壊の危機は現実化する。  ここで、過疎地域(僻地)における教育に目を転じると、とりわけ公教育では、学校の存立に伴う事態が人口減少に起因して進行している。すなわち、学校の統廃合に伴う地域の沈滞化、廃校舎の活用方法などの問題である。これらの問題は、片や行政サービスの改革・経済合理性の観点からと、他方公平性という教育や国民の基本的権利の平等な享受等の観点からとの、要素の複雑な絡み合いの中で事態が進行中である。したがって、過疎地域(僻地)において教育のみを抽出して問題を考えるというよりは、過疎地域(僻地)の問題を背景から検討されるような様々な要素を検討し、地域の全体像を明らかにした上で、教育問題にフィードバックする必要があろう。  こうした問題意識のもと、本稿では対象地域を本岩見沢校において長年「僻地・複式」教育実習を実施している幌加内町に設定し、そうした過疎地域(僻地)における教育問題を考える上での背景条件の検討を試みる。ここではこのような地域課題例として、1995年の鉄道廃止(深名線)問題と地域振興策としての大学との交流に関して、予察的検討を行なう。  2、幌加内町の現状と深名線鉄道の廃止  1)鉄道廃止とは何か(鉄道廃止政策の展開)  過疎地域(僻地)における住民生活上の課題の一つとして交通問題があり、特に公共交通の運営は危機的状況にあり、その確保対策は困難をきわめる状況にある。とりわけ鉄道廃止問題は象徴的事例といえる。ここでは、幌加内町の現状を端的に表わす事象として深名線廃止問題を取り上げるが、鉄道廃止問題のメカニズムは、その議論と決定が非常に複雑でわかりにい。そのためまず、国鉄ローカル線政策と地元の対応の歴史から述べていくことにする。  かつて鉄道は、交通機関の中でも中心的役割を果たし、北海道内をはじめ全国各地で地域の発展・開発に貢献してきた。しかし、モータリゼーションによる著しいマイカーの普及と道路整備で、鉄道輸送量(旅客・貨物)は大幅に減少した。とりわけ局地的国鉄ローカル線は旅客の減少が顕著だったが、それは大正期の改正鉄道敷設法を根拠とし建設に地元自治体自身の負担がなく、数多く敷設されたためであった。国鉄線の鉄道廃止政策史では、1970年代の鉄道廃止(1968年の国鉄諮問委員会意見書「ローカル線の輸送をいかにするか」)が契機;2600kmのバス転換勧告にかかわらず実際の廃止は盲腸線など11線 121km)と、1980年代の特定地方交通線の大量廃止(国鉄再建法により実施)、そして今回のJR北海道による鉄道廃止(上砂川支線・深名線)、とに分けられる。このうち特定地方交通線廃止では、法律・政令で手続きの明確化、廃止対象路線の順序立てた処理(第1・2・3次)、手厚い転換交付金の支出とバス転換以外の第3セクター鉄道化の可能性など、積極的側面を内在させた負の政策であった。実際の展開では、国会通過後の具体的線区名公表は、施策の基本方針は無修正(例えば廃止対象線選定基準)など地元に厳しい内容だったため、地元側は猛烈な反対運動で激しく抵抗した。とりわけ道内では、法令上規定のない「長大4線」を「廃止承認の保留」と対策協議会の中断に持ち込んが、鉄道存続は、中央政界での政治決着とJR北海道による特例的な援助を背景に池北線1線に限られた。この時期、国鉄の分割・民営化が決定的となり、分割後の新会社JRの処遇が不明確な中決定された。この際特定地方交通線へ不認定の線は廃止しないとされたはずであった。  新会社JR発足後の約5年間ほどは、バブル景気などによる好業績で、新たな鉄道廃止は行なわれなかったが(残りの特定地方交通線を除く)、景気後退で状況は一変した。JR北海道は「三島」会社で赤字穴埋め用の経営安定基金の運用益が大幅に落ち込み、黒字幅が大きく圧縮し業績が悪化した。。このため、運賃値上げをはじめ、社員(人件費)の削減の観点から、赤字路線である深名線廃止は重要な経費節減項目へと浮上した。事業者側は、ローカル線の円満な廃止を、秘かに検討していたのである。  2)JRによる深名線鉄道廃止への道程  @深名線の今回廃止の背景  今回廃止の深名線は、廃止対象路線(特定地方交通線)の選定方法での矛盾から生じた結果ものである。国鉄再建法(政令)に関係して、国鉄営業線区は幹線・地方交通線・特定地方交通線と明確に区分された。全国一律な指標を機械的にあてはめ、不合理を承知で例外を認めず、線区の区間毎の細分(従来国鉄部内で実施)も考慮しなかった(例えば宗谷本線の名寄での分割)。このため、函館本線上砂川支線も当面の存続対象となった。国会審議での妥協策としての除外規定(「平均乗車距離30km以上」)で、道内では支庁間連絡路線(釧網・留萌・日高線)が存続した。この際深名線は、並行路線バス(一部は存在)はおろか、道路さえ存在していない区間(母子里〜名寄間)もあり、国鉄側が自ら廃止申請を取り下げた。こうした代替輸送手段がないための鉄道存続は、全国唯一の事例であった。このように、深名線は輸送密度が小さくても当面の存続対象となり、その決定も他の保留路線(岩泉・名松線;JRが現在も運営)よりも前になされた。  A深名線の廃止の前兆現象  JR北海道による最初の鉄道廃止は、函館本線上砂川支線であった。この盲腸線(全長7km余り)は石炭運炭線として建設され、完全に並行するバスが15分毎に運行され、実質的に鉄道はほとんど機能していなかった。また、関係自治体が2つと比較的廃止交渉が容易とみられていて、JR側から廃止をもちかけずに、地元の出方を窺っていた。そこへ上砂川町側からJRに不用意にもショッピングセンター建設に伴う上砂川駅の駅舎改築と移設が打診されたため、それを契機にJR側が廃止交渉に持ち込んだ。この結果、交渉開始後1年に満たずに町は廃止に同意せざるを得なかった。この際、特定地方交通線の時の転換交付金は支払われなかった。1994年5月、札幌からの長大編成の臨時さよなら列車が走る中、75年の歴史を閉じたのである。  深名線についても、JRによる消極的運営で、鉄道廃止直前を印象付けた。まず、途中駅(乗降場)の廃止が挙げられる。駅周辺の開拓集落が挙家離村した蕗ノ台・白華のみならず、新富では病院通いの高齢者を無視して駅が撤去された。当時幌加内町役場は事態を十分把握できず、後日の新聞報道で事後的対応となった。結局、役場では住民の都合に合せて車で送迎することになった。JRは廃止前提の路線についてなるべく利用可能性を減らして運営し、廃止決定後はリゾート列車等の臨時列車を運転するなど、極端な対応をした。また運行方法でも、ワンマン化されず、保安方式も原始的なダブレット閉塞方式のままであった。JR化後のダイヤ改正(改定)による勤務体制の見直しで、乗務員の朱まり内での泊り勤務を止め、一日に所要の気動車3両を旭川運転所から毎日回送する方式に変更されている。さらに廃止提案前年の1994年2月に、積雪量も多くない中、除雪を口実に昼間の列車を4日間運休し、バス代行した。バス転換時の問題点をJRが把握すべく実施したと考えられる。さらにJR部内で、地元の反対が顕在化しにくい廃止の仕方を「研究」していた。社員を研究生として大学に派遣し、廃止後を睨んだ転換策をアンケート調査等により研究している。地元住民の交通利用の意向と鉄道に関する意識を詳細に調査しており、研究自体は貴重なデータであった。  B鉄道廃止と新聞報道  そしてJR部内では、かつての特定地方交通線の廃止反対論議での教訓を十分「学習」した結果、廃止提案のタイミングの重要を認識していた。地元に対して、いかに反対論や地方自治体の発言を鎮静化させるかに傾注した。地元の地方選挙戦での争点化を避けるべく、時期的に名寄・深川の首長や議員選挙の後に廃止提案している。廃止反対期成同盟会にも目を光らせ、団体が統一歩調を組めない状況にするなど、対策は巧妙を究めた。確かに、JRには収益性確保の要請が相対的に強く、マイカー依存社会の進展で地元にも郷愁以外の実質的経済的交通機能が薄れローカル鉄道への熱意がさめた点も、反対運動のエネルギーが散漫になった要因であろう。道庁サイドでも、横路知事は廃止に「理解」し(1995年1月)、事務当局も支庁間連絡などの機能を持たない単なる一地域のローカル線で、廃止もやむをえないとの判断に傾いていた。結果的には、民営移管をめぐって棚上げされたJRバス伊達線廃止問題よりも、鉄道廃止の方が先に決着するなど、かつての鉄道廃止反対運動とは、対応が大幅に異なる。  そして、深名線廃止が現実のものとなる。1993年12月、北海道新聞は突然前触れもなくJR北海道が深名線を「息切れ」と報道。収支係数(百円の稼ぎに数千円のコストを要する)が強調されていた。今回の廃止問題は、地元誌・北海道新聞の情報が絶えずリードし、JRの代弁者となっていく。この段階でJR側は一応打ち消すが、確約はせず廃止には含みを残すなど、地元に不安感を与えた。分割民営化後のJRに対して、利用者や一般国民側は断片的な記事に振り回されることになる。  C正式廃止提案と地元の対応  1994年12月正式に地元へ廃止提案されが、自治体など地元は冷静に対処した。JRはこの段階で7月廃止・全線JRバス転換・定期券差額補償などを想定していた。 地元では、関連4自治体で深名線問題対策協議会を設置(自治体首長・議会議長・商工会・農協・自治区等の長で構成)し、できるかぎり統一歩調をとろうとした。そして、鉄道廃止に同意するかが検討された。とりわけ地元首長にとっては、廃止同意の意志決定は将来にわたって批判されかねないが、現実問題として廃止に同意しない場合、さらに運行本数が削減されることを懸念したとされる。議会や住民へ向けた経過説明は必ずしも十分とは言えない局面もあった。その上、駅がない風連町や関連集落が一部に限られる深川・名寄両市も影響が決定的とは言えない状況にあった。とりわけ名寄市の桜庭市長(社会党出身)にとっても、熱心に取り組んだ名寄本線でさえ廃止されたという過去の「負の学習効果」もあり、今回の深名線廃止に関してあきらめが多分に見られ、また3セクター化での鉄路存続の模索もされなかった。 地元議会による廃止反対決議もJRによる「一方的な」廃止反対と、苦し紛れな表現へとなった。こうして結局、廃止問題は幌加内1町のみの問題へと収束した。  1995年1月の当初のJR側代替輸送案では、定期券差額補助とバス停は鉄道駅の倍にするものの、バスダイヤは現行の鉄道本数を基本とし、運賃も鉄道(地方交通線の賃率)からバス(近隣の北空知バスの賃率に準拠)の体系へと変更するため、定期券では倍にも跳ね上がることになった。地元側はこの案の受け入れを拒否した(2〜3月)。その後の交渉は、主として幌加内町が中心であった。深川に営業所、幌加内にターミナル・車庫、車両はリクライニング車(観光タイプ)、ステップの改良(高齢者対策)などが決まったが、車内トイレについては、汚物処理対策経費の関係で待合所へのトイレ設置で妥協した。その他、快速便の設定(時間短縮のため多度志からノンストップで道道を深川へ出る)ゃJR周遊券で乗車が可能(観光振興の観点)となった。しかし、冬期ダイヤでは若干の余裕を取ったのみである。この段階で地元側は、鉄道存続を断念し、鉄道廃止を念頭に代替輸送のバスのサービス水準という条件闘争に傾斜していた。  JR側が代替バスの便数を従来の鉄道の約2倍として利便性が増した段階で、地元は廃止に合意する。最終的に、JR側が「地域振興策」(特定地方交通線転換時の転換交付金(キロ当たり2千万円)に類する地元対策)を実施することで、決着へ向けて5月を目途に町内の説得と意見集約、協議会会長一任を検討する。5月のゴールデンウィーク直後に地元は廃止合意を公表した(JR社長との廃止承諾書調印は5月16日)。地元自治体側による議会や住民への説明は、廃止受け入れ後で、地元議会も最終局面では廃止やむなしとの意見に集約が図られていた。6月に予定の深川市会議員選挙の前の決着であった。  一方廃止反対運動では、地元幌加内町民の6割が反対した署名があるが、これをJR側が受取りを拒否した。廃止合意後の5月21日、深川市で深名線廃止反対集会とデモ行進が行なわれたが、広範に一般住民を巻き込んだものではなく、大きな力にはならなかった。  3)深名線の最終局面  @深名線列車調査結果の概要  日常的な深名線の最後の姿として、1995年6月1日(通常期平日)に列車乗客アンケート調査と役場インタビュー調査を行なった(岩見沢教育大学地理学学生が参加)。朝の3本の列車(幌加内→深川・朱まり内→名寄・朱まり内→幌加内)の乗客数をカウントした。この中で最も乗客の多い幌加内→深川の列車でも、乗客のほとんどが高校生と老人で40人弱であった。他2本の列車でも同様な乗客層が10人弱であった。このように深名線では、利用者は通学生や高齢者など交通貧困者層に限られていて、公共交通はもはや末期症状にあることを示すものであった。その後は廃止が決定していることもあって、休日特に夏休みを中心に遠い都会からの乗客がどっと深名線に押し寄せ、車両を増結して対応されていて、地元住民は相対的に肩身の狭い状況となった。  しかし、こうした日常的な乗車人数をそのままバスへ移行させた場合、鉄道車両よりもバスは狭く窮屈な状況にあり、幌加内から深川への通学高校生の一部は列車通学を諦め、深川に下宿を余儀なくされたという。こうした幌加内から深川へなどの通学は、地区の中心的進学校へ学区内周辺部から生徒が通学し、逆に中心地区の生徒でも学力の関係で周辺部の高校に通学せざるをえないという、学力格差が生じさせる通学の形態の典型的事例である。ローカル線の鉄道・バスの最大の利用者が高校生で、彼らの通学は前述の理由によっているのである。その他、JR化後の列車ダイヤの間引きにより、町内最北部の母子里から役場のある幌加内へは列車利用で日帰りが不可能ダイヤとなってしまった。このため町では、午前中の列車に接続させて朱まり内〜幌加内間についてはスクールバスに鉄道運賃と同額で混乗させるなど、鉄道ダイヤでは対応できない状況も表われていた。このように過疎地の交通問題は、教育・福祉の問題へと化していたのである。  A最終日の深名線  1995年9月3日(日曜日)は、鉄道としての深名線最終日であった。鉄道廃止はイベントと化し、臨時列車増発と増結が行なわれた。当日の乗客層は非日常的な客層が多く、男子青年層(鉄道ファン)、年配の男女(お名残り乗車)、家族連れの順で、沿線にはマイカー乗車を利用した写真撮影者とじっと手を振る沿線住民の姿が目立った。  一方、朱まり内湖近くの湖畔駅横の、再建された光願寺前では、タコ労働による深名線鉄道工事犠牲者の追悼法要と、コンサート(伊藤多喜雄)が行なわれたが、こちらの参加者の多くはマイカーを利用していて、鉄道乗車とは無関係であった。この行事の主催者には、鉄道廃止への感慨はほとんど感じられなかった。10両と長大編成の最終列車は、紙テープが舞う雨の中、終着駅・深川へ向かった。  翌日は転換バスの出発式が行なわれ、「アングル北海道」(NHK北海道地方特集番組)でも指摘されていたように、通学の高校生が下宿などにより減少が予想されていた。また廃止翌日から駅舎の閉鎖、踏切・線路その他の撤去が始まり、1か月ほどで完了した。その後、代替バスの待合所や乗務員休憩所の建設が行なわれていった。  4)なぜ鉄道反対運動はエネルギーを持ち得なかつたのかー自然保護運動との対比ー  深名線廃止は、この地域の林業開発・ダム開発という資源収奪型開発の歴史からは用途の喪失であり、地元住民対策さえ講ずれば廃止は当然ということになる。その一方、時代から取り残され郷愁をそそる「産業遺産」は、実際に鉄道の利便性を享受する大都市住民にとっては、新たな「レトロ」という「価値」を創り出した。しかし今回、反対運動は高揚しなかった。  一方、士幌高原道路建設反対など自然保護運動は、地球環境問題を追風に全国的な支持を受けている。この自然環境は、代替性がなくかけがえのないスーパー公共財で、絶対的な価値を有しているの考えられる。しかし鉄道の深名線には、現状では代替性がある。この深名線以外に鉄道は全て廃止されてしまうなど極端なモータリゼーションの進まない限り、鉄道・深名線は蒸気機関車(C62ニセコ)と同様に、価値を持つとは考えられていない。  地元幌加内では地元の交通確保対策で精一杯であり、廃止鉄道の文化財的価値まで考えることはできなかった。鉄道の存在は、単に寂しい・マチのイメージ低下など消極的認識に留まっているのが現状であり、ナショナルトラストの対象ともなりうるような近代文明遺産としての価値は、いまだに認知までには至っていない。地元自治体の観光開発計画では、いまだに鉄道廃止の全国的な注目を生かすどころか、等閑にされている。都会住民の鉄道への郷愁を実現することとは、別問題と考えられていた。  3、幌加内町の現状とマチおこしの動向  1)幌加内町の集落立地と大学とのかかわり  幌加内町は、北海道中央部の空知支庁最北の町であり、母子里では日本最低気温(-41c)を記録するなど気象条件は道内有数の厳しさである。周囲を山林(国有林(旧御料林)や北大演習林)に囲まれた山村で、北部には電源開発のため作られた人造湖・朱まり内湖があり、風光名眉なため一帯は道立自然公園に指定されている。町内は過疎化が著しく進行しており、過疎地の中でも僻地の「極」的な様相を呈している。近年町が行なった施設建設では、政和地区の公営温泉施設「ルオント」で、これはかつて存在した温泉を復活したものである。今後この施設に隣接させた国道沿いには、「道の駅」などの施設も建設が予定されている。  幌加内町は、日本最低気温を記録したり、日本一のそば作付け面積を誇るなど、視点を変えた場合話題性に富んでいる。また幌加内町の特色として、町内に独自に3大学とのパイプを有している点でも、ユニークである。まず、北海道大学雨竜演習林は、その大学演習林の占める割合からも、社会経済的にも大きな存在である。母子里には作業所と学生宿舎があり、毎年「冬山実習」等で農学部森林科学科を中心とする学生や研究者が訪れ、実習や研究が行なわれている。名古屋大学応用電子研究所も母子里に立地しており、研究者の来訪し、観測などが行なわれている。北海道教育大学岩見沢校に関しては、常設の施設があるわけではないが、選択科目の「僻地教育実習」が町内僻地指定の各小学校を舞台に合宿形式で行なわれている(母子里小については廃校後中止になった)。  大学研究と地元との交流に関しては、母子里在住のマチおこしを目指す有志によって、北海道大学と名古屋大学の施設については研究報告会の開催が計画されている。しかし、北海道教育大学の事例に関しては、任意で地域住民が教育実習生の学生への慰労会が手作りで催されている。しかし、オフィシャルな行事として定着するまでには至っていないのが現状である。地域振興の観点で、教育大学が果たすべき役割が今のところそれほど認知されていない感もする。  2)幌加内町のマチおこしー特色ある手法の模索ー  1995年、幌加内町は注目を集めた深名線廃止を中心に、イベントの多い夏となった。「Be−Pal」誌で全国的に紹介された「Be Palキャンプ」では、全国各地から若者が訪れたが、母子里での廃校校舎の活用策にもなっている。この母子里には、今後北大演習林から土地の提供を受け、「日本最寒の地」記念公園の整備が予定されている。さらに母子里地区では、北大演習林を活用した行事として紅葉回遊(秋)や天使の囁き・演習林セミナー(冬)などが行なわれ、マチおこしを標榜する町民有志が運営を支えている。また政和地区では、日本一のそば栽培面積にちなんで「そばフェスティバル」が夏に開催されている。  幌加内町朱まり内には、廃校となった小学校校舎を利用したユニークな宿泊体験施設「ふれあいの家まどか」がある。この施設は体験を重視しており、主として都会の小学校児童を対象に独特なプログラムが用意されている。例えば手すき和紙や笹紙づくりの他、夜中の崖下りや、旧名羽線鉄道跡のトンネルをナイトハイクして、こうもりを観察しようとするものなど個性的であり、冒険的で刺激的内容も含まれる。この施設の支配人であるY氏は大手自動車メーカー技術者から転身した人物であるが、仕掛け人・シンクタンク的センスの持ち主である。このように、身近な地域資源を奇想天外なアイディアのもと、プログラムとして何でも活用しようとするアイディア・姿勢には、大いに学びとる必要がある。こうしたアイディアは、グリーン(エコ)ツーリズムに通じるところがある。今日、大規模リゾート開発への反省から、休養のための草の根型本来的リゾートとして、グリーン(エコ)ツーリズムの推進が叫ばれている。この概念は、山間地域のリゾート開発論の原点であり、やり方によっては過疎化や老齢化の脱却など真の地域振興ともなりうるものである。そのためには、都会住民に魅力を抱かせるような、地元で特色ある自然や文化の解説・ガイドが行なわれ、担い手が必要である。しかし現状では、魅力的なコンセプトや人材の不足しており、発送の大きな転換が必要である。また、そうした観光収入が地元経済に算入され、さらなる地域振興策へ活用される必要も指摘されよう。こうした計画には、以下のようなチェック項目が考えられる。  *地元・提供者(農山村)側 @構想・プログラムはいかに開始され、展開したのか A主な地元側 Acterが誰で、その対象者はいかなる人々か B地元の住民・経済との関わりとして、地場産品との連係は密接か C住民交流の進展度と、満足の度合いはどうか D地元での「合意形成」の成熟度や、郷土を自慢できるかはどうか  *ビジター(都会)側 @提供された活動プログラム・内容に満足したか A住民との交流の度合いと満足度はどうか B自然体験を通じた環境保全意識は醸成されたか C山村地域に対して、都市住民として抱いていたイメージは変革されたか  4、おわりに  本稿では、僻地教育実習が実施されてきた幌加内町における地域の特色について、鉄道の廃止とマチおこしの現状から検討し、今後の地域振興策を分析する上でのチェックリストの提示を試みた。こうしたことを基に、地元の地域住民と来訪者の交流の機会をいかに確保していくかが今後の検討課題である。このためには、地域の特色を生かした独自の地域振興と、教育・学習活動へのフィードバックが強く求められる。今後も幌加内町など過疎地域(僻地)のより一層の情報収集を進めていきたい。そして、こうしたマチおこしのさらなる展開と、教育大学の果たすべき新たな課題を期待したいものである。  参考文献 青木哲雄(1978):「雨竜川物語」北書房,231p. 幌加内町(1978):「町づくり二十年」幌加内町,254p. 武田 泉(1991):北海道における鉄道廃止政策の展開と沿線地域社会.交通学研究90年年報 〜 . 武田 泉(1991):富良野大雪地域におけるリゾート開発の動向と地域的対応.札幌大学教養部紀要 39,68〜89. 武田 泉(1993):リゾート開発の展開と地域の対応ートマム開発を事例として.林業経済532,21〜26. 武田 泉(1993):行政改革と自然保護ー国立公園をめぐる林野庁と環境庁の対応を中心にー.林業経済研究123,85〜89 武田泉・後藤忠志(1994):地域社会における環境教育の理念と実践の乖離−宿泊研修における十勝岳登山の実態(予察)−.合同教育研究集会(北海道)環境教育分科会報告. 武田泉・後藤忠志(1995):学校教育における野外活動の現状と環境教育の理念−北海道と青森県の事例−.北海道地理69,57 〜65. 村田健一(1995):自然環境の保護管理と地域振興ー白神山地周辺地域の現状と課題ー.弘前大学人文学部社会学科卒業論文. 阿部宗広(1993):わが国におけるエコツーリズム展開の方向性.国立公園518, 8〜10. 小松光一・小笠原寛(1995):「山間地山村の産直革命ー山形村と大地を守る会の出会い」農文協.   過疎地域(僻地)における地域課題としての地域振興策  ー幌加内町における鉄道廃止問題と大学との交流を手掛かりにー                     武田 泉(岩見沢校地理学研究室)  Reagional promotion policy for reaional subjects in rural society --A clues to the railway abolishing problem and the human interchange to universities in Horokanai Town,northen Hokkaido--