武田論文集--北海道支部--(未発表)   深名線廃止をめぐる人間模様  ーJRと地元行政・マスコミ報道の3極構造の外側からー                  武田 泉(北海道教育大学岩見沢校講師)  1、はじめに  「ついにローカル線の大物・深名線の廃止の時がやってきた。」これが、今回の率直な感想ではないだろうか。鉄道の好きな人からすれば、この1995年は、深名線の他SL・C62ニセコも従来の形態による運行も本年限りということで、古き良き北海道の鉄道遺産を一度に2つも失う年となってしまった。とりわけ深名線廃止については、やはり今回も議論と決定のわかりにくさとあきらめが先行してしまった。今後重要視されるだろう環境重視という政策理念に関しては、深名線の置かれていたローカル線としての状況もあってか、全く乖離したものだった。そして今回、地元紙・北海道新聞の報道におけるリーク情報が、かなり正確であったことは一体何を示すのか。ここでは、このような鉄道廃止を取り巻く観点から、深名線廃止を考えてみたい。  2、鉄道廃止とは何か(鉄道廃止政策の展開)  1)国鉄ローカル線が歩んできた途  かつて鉄道は、交通機関の中心的役割を果たし、北海道内をはじめ全国各地で地域の発展・開発に貢献してきた。しかし、モータリゼーションが進展した今日、著しいマイカーの普及と道路整備などで、鉄道旅客は大幅に減少していった。そもそも、これらの局地的な国鉄ローカル線は、大正期の改正鉄道敷設法を根拠に国鉄が建設するため、地元自治体は自らの負担なしに建設することが可能だったものである。  国鉄線の鉄道廃止政策という観点から歴史を紐解くと、1968年9月の国鉄諮問委員会意見書(「ローカル線の輸送をいかにするか」)を契機とした1970年代の鉄道廃止と、1980年代の国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)による大量の特定地方交通線の廃止(一部第3セクター鉄道化)、そして今回のJR北海道による鉄道廃止(上砂川支線・深名線)、とに分けられる。1970年代の鉄道廃止では、83線2600kmのバス転換勧告にもかかわらず1972年までの4年間に廃止されたのは30km以下の盲腸線を中心とした11線 121kmにとどまっている。1980年代の特定地方交通線廃止では、法律・政令で手続きを明確化したこと、廃止対象路線を第1・2・3次と順序立てて処理したこと、手厚く転換交付金を出しかつバス転換以外に第3セクター鉄道化の途も残しておいたこと、積極的側面を内在させた不の政策であった。しかし、具体的線区名の公表は国会通過後とし、廃止対象線選定基準などの施策の基本方針は修正されないよう周到に準備した。そのため、地元が強力で猛烈な反対運動によって激しく抵抗して、とりわけ道内では法令上規定のない「長大4線」として認定させ、廃止承認の「保留」と対策協議会の中断に持ち込んだ。しかし、道内で第3セクター鉄道として残り得たのは、中央政界での政治決着とJR北海道による特例的な援助を背景とした池北線1線のみという厳しい結果に終った。この時期、国鉄の分割・民営化の方針が決定的となり、分割後の新会社JRの処遇が不明確だったが、この際運良く特定地方交通線に認定されなかったローカル線は廃止されないと、国民に向けて約束されたはずであった。  新会社JR発足後5年間は、バブル景気に支えられた予想を上回る好業績により、JRは廃止交渉の遅れで引き継いだ残りの特定地方交通線の廃止を行なっただけで、確かにこの公約は守られた。しかし景気が不況に転ずると、JR北海道は「三島」会社であり赤字穴埋めのための経営安定基金を有するという事情を抱えていた。新会社JR発足後数年間は、中期業務計画として経常利益40億円と・株式公開を当面の目標としていた。この基金の規模は利回り1%の変動で増減幅は70億円とされるが、低金利を反映し、基金の運用益は平成5年度で3億円と大幅に落ち込み、黒字幅が大きく圧縮してしまい業績が悪化した。このため、計画は破綻してしまった。JRは、次期長期計画として経営ビジョン「ステップアップ21」に下方修正し、1995〜2001年の7か年計画で社員2000人の削減を目指すことにした。人件費削減の面からも深名線廃止は重要な経費節減項目へと浮上した。そのため、ひそかに不本意ながら存続してきたお荷物のローカル線を、何とか円満に廃止できないかと、必至に検討するようになっていた。  2)JRによる鉄道廃止政策  @深名線はなぜ特定地方交通線とはならなかったのか  JRにとって、不本意ながら存続させられてしまった深名線。それは、廃止対象の特定地方交通線の選定方法とその論議の過程で生じた政策上の「エアポケット」による結果である。1982年11月の国鉄再建法案成立時には、明確な基準によって国鉄営業線区を区分し、廃止対象線を選定する必要が生じた。その際、幹線系・地方交通線・特定地方交通線に区分された。政令の制定にあたって単純な統計的指標を全国一律に機械的に適合させ、多少の不合理を承知で極力例外扱いを避け、かつ従来から国鉄部内で行なわれていた線区の区間毎の細分も考慮しなかった(例えば宗谷本線を名寄で分割など)。このため函館本線上砂川支線も当面の存続対象となった。  また、国会審議過程では、合意を得るための妥協策として、路線選定の除外規定を4つ設けている。例えば「平均乗車距離30km以上」という条項の追加で、釧網・留萌・日高線の北海道の支庁間を連絡する路線など全国十数線救済が対象外なっている。深名線の場合、一部を除いて並行する路線バスはおろか、母子里地区から名寄へは道路さえ存在していなかったため、国鉄側が廃止申請を取り下げた。代替輸送手段がないための鉄道存続。これは、全国唯一の事例であった。このため1984年6月には、輸送密度がいかに小さくても当面の存続対象としてされたのである。深名線の存続は、道内長大4線と本州2線(岩泉・名松線;JRが現在も運営)の、保留扱いとなった第2次対象線よりも前に決まっていたのである。  A「本命・深名線」前段の函館本線上砂川支線の廃止  まず槍玉に挙げられたのは、函館本線上砂川支線であった。この7km余りの盲腸線はもともと石炭運炭線として建設され、バスが15分毎に完全に並行して走っていたため、鉄道には実質的な交通機能はほとんど有していなかった。また、関係自治体が2つのみという点も、比較的廃止交渉が容易と判断していたが、JR側から廃止提案をもちかけることはせず、ひたすら待ちの姿勢を取っていた。そこへ上砂川町側からショッピングセンター建設に伴う上砂川駅の駅舎改築と移設がJRに打診され、これ幸いと一気にJR側が廃止交渉に持ち込んだ。結果的に、町の行動は不用意だったのである。ひとたび廃止交渉が開始されるとそれを止めることはできず、町は廃止に同意した。この際、特定地方交通線の時の転換交付金は支払われなかった。そして交渉開始から1年に満たない1994年5月、札幌からの長大編成の臨時さよなら列車が走る中、 年の歴史を閉じたのであった。  B深名線の廃止の前兆現象  一方深名線はというと、JR化後人員の削減の割には冬期の運休が減ったなどの、職員気合いをにおわす減少が、地元住民から指摘されたこともあった。しかしJRの施策を見ると、明らかに廃止直前を印象付ける消極的態度が感じられるようになっていた。  まず第一に、途中駅(乗降場)の廃止である。駅周辺の開拓集落が挙家離村し人口零の蕗ノ台・白華はいざ知らず、集落にわずかながら病院通いの高齢者が存在するにもかかわらず駅を強引に撤去した新富に至っては、全く廃止を予感させるものであった。この際幌加内町役場も事態を把握できず、駅閉鎖に生返事してしまった。後日北海道新聞の報道であわてて抗議したものの間に合わず、役場で住民の都合に合せて車で送迎することになった。金がないはずのJRも、廃止翌日には駅名標を撤去し、さらにはホームまでも撤去し地ならし氏までしている。廃止前提の線は、徹底的に利用者を減らすべく利用可能性を自らふさいでいった。この態度は廃止決定まで続き、決定以降は毎週のようにリゾート列車等の臨時列車を運転するという、両極端な行動を取っている。  第二に、運転をワンマン化せず、保安方式も原始的なダブレット閉塞方式のままだったことである。このことも、かなり前から廃止間近という噂の根拠となった。むろんJRになってからのダイヤ改正(改定)で、乗務員の朱まり内での泊り勤務を止め、一日に所要の気動車3両を旭川運転所から毎日回送するといった勤務体制の見直しも、路線廃止を念頭に置いた消極的方向性を示すものであった。  第三に、廃止提案前年の1994年2月に、それほどの積雪量ではないにもかかわらず、除雪を口実に昼間の列車を4日間運休し、バス代行したことである。この時バス転換した場合の問題点をJRが把握したものと考えられる。  第四に、JR部内において、地元に「優しい」廃止のあり方を、社員を大学に派遣して「研究」させていたことである。某大学工学部に送られた研究生は、廃止後を睨んだ転換策の研究を行なった。研究自体は、アンケート調査により地元住民の交通利用の意向と鉄道に関する意識を詳細に調査しており、貴重なデータであった。文脈的にJRが潜在的に関与していたことは、意味深長である。  JR部内では、多大な労力を費やした特定地方交通線の廃止反対論議での教訓を十分「学習」していた。その結果、廃止提案のタイミングが重要で、いかに反対論を鎮静化・分断させるか、いかに大きな発言権を持つ地方自治体を攻略するかを、作戦を徹底的に練り上げた模様である。例えば、地元の地方選挙戦での争点化を回逃するため、選挙前は沈黙しほとぼりさめてから根回し・提案するようになった。時期的に名寄・深川の首長や議員選挙と符合する。また、自治体による廃止反対期成同盟会設立を阻止し、自治体と労働組合とを統一歩調を組めない状況にするなど、巧妙になった。確かに、国鉄ではなく収益性が求められるようになったこと、マイカー依存社会の進展で地元にも郷愁以外の実質的経済的交通機能が薄れるなどローカル鉄道への地元の熱意がさめた点も、地元反対運動が散発的になった要因であろう。そして、横路知事がは「ふるさと訪問」で早期廃止に「理解」していた(1995年1月25日)。道庁にしてみれば、この深名線には支庁間連絡などの重要機能をを何一つ有しておらず、単なる一地域のローカル線に過ぎない。このため道庁も、線区の特性から廃止やむなしというムードに傾いたと考えられよう。  結果的には、棚上げされているJRバス伊達線廃止問題よりも鉄道廃止の方が先に決着することになったのである。このJRバス伊達営業所廃止問題では、民営移管(道南バス)されると新たに地元負担が求められるものの、JRは経営安定基金のため地元負担なしという点が、地元交渉を遅らせている原因である。いずれにしても、鉄道廃止反対の地元パワーは、一頃の鉄道廃止反対運動と比べ隔世の感がある。  3、深名線廃止への道程  1)道新報道問題  1993年12月、北海道新聞は突然前触れもなくJR北海道が深名線を「息切れ」と報道。百円を稼ぐのに数千円コストがかかる(かつての収支係数)ことが何より強調されていた。直接の当事者ではない地元誌・北海道新聞の情報が、他紙をさし置いて今回の廃止問題を絶えずリードするという、奇妙な展開を呈することになる。この段階では、JR側は正式に計画していないと一応打ち消すが、「将来にわたっては廃止しないか」との問いには含みを残すなど、地元には不安がよぎることになる。今から考えると、JR側はリーク記事による効果を推し測っていたのではなかろうか。このように、地元新聞(北海道新聞等)の観測記事「方針」がかなり信ぴょう性があったということは、事実上地元新聞が特殊会社・JRのスポークスマン・代弁者となっていることを示すものである。確かに情報の伝達という観点からは重要なことだが、マスコミの本来のあり方としては果して妥当なのであろうか。すなわち、利用者・一般国民は、JRの行動に関する断片的な記事には振り回され、一喜一憂する。 これが、分割民営化後のJRと地方行政を含めた一般国民との関係なのである。この時同紙は、現地ルポとして住民に意見を聞いていて、かつての長大四線などの時とは異なり、「やむを得ない」とするあきらめが少なからず存在していたことを指摘。結果的にJR担当者を勇気付けたのであるまいか。現に1994年2月には、JRは大した積雪量でもないのに「豪雪のための除雪」と称して、4日間にわたって昼間の列車を運休し代行バスを走らせ、バス転換に備えた。こうした動きからは、JRが着々と廃止の準備を重ねていたことが理解される。この時点になるとJR側は、タイミングをどうするか、どう話を切り出してどううまく廃止へ持っていくかという一点に集中していたのであろう。現に、廃止問題が地元選挙の争点化するのを回避するため、統一地方選挙による深川・名寄両市市長選挙が終り現市長が再選されるのを見届けた後など、選挙日程を横目でにらみながら廃止提案へと持っていったのであろう。  そして1994年12月、今度は本当に地元に廃止提案がなされた。地元は自治体を中心に一応困惑顔をしたが、「来るべきものが来た」と意外と冷静ではなかっただろうか。この段階におけるJR側の腹づもりは、7月廃止・全線JRバス転換・定期券差額補償などと、廃止計画の基本は既に練り上げられていたと見ることができる。つまり、特定地方交通線廃止時におけるJRによる地元対策の「学習成果」が実ったのである。  2)正式廃止提案後の地元自治体  さっそく地元では、関連する4自治体によって深名線問題対策協議会を設置し、対応を協議することになった。この協議会のメンバーは、自治体(首長)・議会(議長)・商工会・農協・自治区等の長で構成された6名を代表に選任し、できるかぎり統一歩調をとることが申し合わされた。  まず地元論議における第一の論点は、鉄道廃止に同意してもいいのかという点であった。とりわけ、鉄道廃止同意の意志決定が迫られる地元首長にとっては、将来にわたって自らが「幕引き役」になったと見られることにもなる。しかし、今回JRに対して廃止を同意しないと、当面鉄道が存続するにしても一層本数が削減され、とても生活の足として使えなくなることを懸念したと振り返る。一日の深名線運行のための所要両数を3両から2両へと減らすことによる、ダイヤの減便も十分に考えられた、というものである。しかしながら、各自治体は議会や住民へ向けた詳細な経過説明には、積極的とは言えなかった。その上、関連4自治体のうち風連町部分には駅がなく、深川・名寄両市についても関連する集落は一部に限られ決定的な影響を受けるとは言えない。とりわけ名寄市にとっては社会党出身の桜庭市長にとっても、あれほど気合いを入れた名寄本線でさえ、残すことができなかったという過去の「負の学習効果」もあってか、今回の深名線廃止についてはあきらめの気持ちが強かったようにも受け取れる。 また、3セクター化して鉄路を残そうとする動きも全く見られなかった。特に道庁の態度は、深名線の線区としての重要性を認定しなかったため地元とJRの交渉をただ静観して見守るのみであり、かつての長大4線の時のような表立った動きは全く無かった。地元議会による廃止反対決議もJRによる「一方的な」廃止反対と、苦し紛れな表現へと追い込まれざるをえなくなったのである。こうして結局、廃止問題は幌加内1町のみの問題へと収束してしまい、反対運動が高揚するには至らなかった。  そうして第二段階を迎える。1995年1月になると、JR側は代替輸送案を提示してきた。当初の提示案では、定期券差額補助は行ないバス停は鉄道駅の倍にするというものの、バスダイヤは現行の鉄道本数を基本とした 往復であり、運賃も鉄道(地方交通線の賃率)からバス(近隣を事業エリアとする北空知バスの賃率に準拠)へと体系そのものを変更するため、定期券では倍にも跳ね上がることになった。この提示案を2〜3月にかけて、地元側は受け入れを拒否した。この段階での交渉は、主としてJRに対し幌加内町が主体で行なわれた。営業所を深川に、ターミナル・車庫を幌加内に置くこと、車両面では観光タイプのリクライニング車の投入、高齢者を考慮してステップの改良(車体を傾ける)、トイレの設置、等を強く要請した。トイレについては、汚物処理対策経費の関係でいくつか設けられる待合所へのトイレ設置で妥協せざるをえなかった。その他、時間短縮のため多度志からノンストップで道道を深川へ出る快速便の設定や、朱まり内湖の観光振興の観点から代替のJRバスが周遊券でも乗れるようにすること等も、地元側は強く要請したという。だが冬期のダイヤについてはまだ不透明なままであった。この時すでに地元側は、鉄道存続が極めて困難であることを察知し、鉄道廃止を念頭にして代替輸送のバスのサービス水準という条件闘争に傾斜していたとも受け取れる。JR側は計画案を持ち帰ることになった。  第三段階では、JR側は前段階の代替バスに関する交渉内容をかなり受け入れた。とりわけ便数面でかなり妥協し、従来の鉄道本数の約2倍の本数となり、ダイヤ上は利便性が増す内容となっていた。このため、論点は最終的には、「地域振興策」(北海道新聞による造語)の内容に帰結することになった。これは、特定地方交通線転換時に支払われた転換交付金(キロ当たり2千万円)の代りに実施されるもので、JR側が任意に地元に誠意を示そうとするため実施される対策である。交渉によって決められ、明確に定まっていないものである。この点は廃止後まで持ち越されたようである。この段階になって、地元側はこの辺で合意受け入れを念頭に、5月を目途に町内の説得と意見集約、さらには協議会会長一任を検討するようになった。  結局、5月のゴールデンウィーク直後に事態は急転し、地元はあわただしく廃止合意を決めた。JR社長と廃止承諾書に調印したのは、あのオウム・麻原逮捕に揺れた5月16日のことであった。この際、地元自治体側が議会や住民へ説明したのは、廃止受け入れという結論が決定してから後であった模様である。地元議会も最終局面では、廃止やむなしという意見に、共産以外の社会・自民・民社の委員は賛成したとされ、また6月に予定されていた深川市会議員選挙の前に決着させようとした形跡も見られた。  3)深名線廃止の反対動き  深名線に関して、以下のような廃止反対動きがなされた。まず地元幌加内町内での反対署名、これには町民の6割が応じたという。しかしこの署名を、JR側が受取りを拒否。JR側のかたくなな態度が鮮明となった。そして事態急転時の5月21日、急遽深川市民会館で深名線廃止反対集会が行なわれた。当日はこれまでの経過説明として、合意決定までの経過の不透明さに関する報告と廃止反対運動の継続が議論され、来賓挨拶、深川西高校生徒代表の意見発表、終了後の市街地デモ行進が行なわれた。当日の会場での参加者は、高教組他の労働組合関係者が主で、広範な一般住民の参加は十分とは受け取れなかった。またデモ行進も駅前までへも接近できず、その光景は十年ほど前の国鉄赤字廃止反対運動の頃とは、隔世の観があった点が印象的であった。 4、深名線の最終局面  1)深名線列車調査結果の概要  日常的な深名線の最後の姿として、休み前の平日である6月1日に、岩見沢教育大学地理学学生とともに、列車乗客アンケート調査と役場インタビュー調査も行なった(この調査については、のちにある批判を受けることになる。幌加内に朝の一番列車に間に合うように岩見沢を真夜中零時に出発、マイカー4台で出駆けた。モータリゼーションの中で育った現代の一般学生にとっては、興味の乏しかったかもしれない。)。  朝、幌加内→深川・朱まり内→名寄・朱まり内→幌加内の3本の列車の乗客数をカウントした。この中で最も乗客の多い幌加内→深川の列車で、乗客は高校生と老人で40人弱。他2本の列車では10人弱であり、この鉄道路線がもはや末期症状にあることを感じさせられた。  2)最終日の深名線の人間模様  1995年9月3日、日曜日。鉄道としての深名線最終日である。鉄道廃止フィーバーは、何か人間の葬式のようである。閑散としていた列車に、「おなごり乗車乗客」でいっぱいになるのが「通夜」、そして最終日が「本葬」、お別れセレモニーと紙テープが舞う最終列車は「告別式」、乗車証明書が「会葬御礼」といったところか。断続的ににわか雨が降った当日は、臨時列車が増発され昼間の列車は5〜6両に増結。最終列車は10両編成であった。当日の乗客層は、鉄道ファンと見られる男子青年層が圧倒的に多く、次に名残り惜しそうな表情の年配の男女、それに家族連れといった順である。そして、列車を追い掛けるようにマイカー乗車の撮影部隊、それに好撮影ポイントのお立ち台のカメラ三脚と砲列。さらに、畑の中からじっと手を振る沿線住民。こうした人々に見送られて、列車は走っていった。幌加内では臨時列車は9分停車。駅前では、ビデオカメラが何台も回されていた。幌加内商工会による名産のそばの食事処と化し、廃止イベントでPRという矛盾を抱える。JR子会社のエージェンシーの女性は、記念の絵葉書を販売に来る。車掌ではないので入場券は持っていないという。そして、おわかれ式の名寄を折り返した同列車車内では、名寄の中学生による廃止問題にするアンケート用紙が回ってくる。  一方、朱まり内湖近くの湖畔駅横の、再建された光願寺前では、タコ労働による深名線鉄道工事犠牲者の追悼法要と、伊藤多喜雄コンサートが行なわれたが、こちらの参加者の大部分はプロダクション・ボランティアともどもマイカー利用のようで、廃止当日にぶつけているものの、鉄道そのものとは一線を画していたようである。現に主催者のあいさつでは、鉄道廃止への感慨はほとんどないようであった。その他、先述の廃止反対運動の労働組合筋は、この日鉄道廃止反対アピールをマスコミへ向けて出していたようだが、こちらも列車には乗車していなかった模様である。  夕闇の深まる秋色深い母子里の里。新築された演習林庁舎から住民センターへ。一休みしようと中に入ろうとすると、母子里住民の「用事がなかったら帰れ」の一言。その表情からは、鉄道関係の旅人・来訪者と地元住民の落差を垣間見る感じる。しかし一方、地元はこうした来訪者パワーをいつも生かし切れていないと思うが、こうした考えはなかなか出来ないのであろうか。北母子里駅に戻ると、最終列車を待つ待ち合わせ乗客と、例の最近流行の「無人駅設置ノート」ヒマつぶしに見る。駅寝(STB)も少なくないこと、8月にここのポイントが勝手に操作されて、列車が危うく脱線しそうになり、このノートの設置者である北見の人物にまで、警察から電話が掛かってきたことが書かれていた。こうしたノートは、匿名性の中での、趣味人としての連帯・自己主張なのだろうか。まだ時間があるので、こちらも書くことにした。隣に座った若者は、どうやら北大生のようだ。翌日の道新でも紹介されていた、上ノ国町内の江差線に、増収と活性化のために町が整備した公園脇に「天の川」駅を設置しようと運動している、函館の人物の文もみられた。  すでにとっぷりと陽が暮れ、一層闇の増した中やってきた、最終列車。朱まり内と幌加内で列車を連結し、最終的には深名線始まって以来の10両の長大編成に。紙テープが舞う中、終着駅へ。深川ではホームが短すぎてドアを締め切ったため、乗客が降りるのに20分以上かかるはめになった。  そして翌日の転換バスの出発式。NHK北海道地方番組の特集(アングル北海道)でも指摘されていたように、通学の高校生が下宿などにより減少しそうなことが指摘されていた。踏み切りは撤去され、線路は赤錆びていく。同じ日、3セク鉄道として存続した北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線に「岡女堂」駅が開業。請願駅スタイルの企業抱えの「冠駅」で、神戸本社の豆菓子メーカーが十勝に進出し、線路ぎわの工場に記念館を併設したもの。時計の針はどんどん進んでいた。  3)深名線廃止反対運動はなぜエネルギーを持ち得なかつたのか ー自然保護運動との対比からー  深名線廃止は、この地域の林業開発・ダム開発という資源収奪型開発の歴史からすれば、用途の喪失であり、地元住民対策さえ講ずれば廃止は当然ということになる。その一方、時代から取り残され郷愁をそそる「産業遺産」は、実際に鉄道の利便性を享受する大都市住民にとっては、新たな「レトロ」という「価値」を創り出した。ダブレット閉塞による非自動信号方式。改築されないままの古い木造駅舎。極端に少ない運行本数。それに自然の中を走る都会離れした風景。大幅な赤字でなければ、何とか残せないものかと思うのは当然のことであろう。しかし今回、反対運動は高揚しなかった。なぜだろうか。  一方、士幌高原道路建設反対など自然保護のための運動は、地球環境問題を追風に全国的な支持を受けている。この自然環境は、代替性がなくかけがえのないスーパー公共財であり、絶対的な価値を有しているの考えられる。しかし鉄道の深名線には、現状では代替性がある。例えば、極端にモータリゼーションが進み、この深名線以外に鉄道は全て廃止されてしまった。これならば、文化財としての鉄道・深名線の価値が与えられ、場合によっては世界文化遺産にもなりうるのであろう。C62ニセコもまだ同様の段階にあるのであろう。鉄道趣味も登山趣味も、どちらも地理っぽい内容だが、なぜか前者は肩身の狭い思いを強いられている理由の一つは、この辺にあるのかもしれない。より深い考察が必要である。  それにしても、日本の雑誌出版文化の隆盛はすさまじく、その市場規模・情報流通量は他国の追随を許さない状況にあるのであろう。組織化されない鉄道廃止への「郷愁」のエネルギーは、何とか廃止後の保存鉄道の動きにつながらないものであろうか。地元幌加内では、地元交通対策で精一杯であり、そこまで手が回らないという。このまま、なしくずしに全ての線路がはがされるのではなく、一部でも生きた形で後世へ残すことはできないのであろうか。単に寂しくなる、マチのイメージが低下するとするだけでなく、新たな行動や展開がほしいところである。