(ワイルドライフレポート投稿原稿 1992)   学生の立場で環境問題を考える    ーA Seed Japan 北海道の経験から       武田 泉(北海道大学・環境科学・院)  1、はじめに  地球環境問題が脚光を浴びるようになってすでに久しい。また、1992年6月にリオデジャネイロで開催された国連環境開発会議(UNCED・地球サミット)からすでに一年。今日ほどNGOの役割の重要性が問われることはない。ここでは、私も活動に加わったA Seed Japan北海道の経験を踏まえ、環境NGO活動の一端を紹介したい。なおここでは筆者の個人的見解であることをお断わりしておく。  2、A Seed の目指すもの  1)A Seedとは  地球の日(The Earth Day)。アメリカの市民団体が仕掛けた、人種・民族を越えたエコロジーの日である。そして1990年、アメリカのイリノイ州立大学で行なわれた国際学生環境行動に集まった11か国の青年リーダーたちによって誕生した学生・青年組織である。A Seedは、Youth Action For Solidrity, equality,environment and Developmentの頭文字を取ったもので、文字どおり「種子まき」をしていく状況を示す名称である。その大きな目的は、地球サミットに若者の立場から提言をし、討議されなかった軍事活動や他国籍企業の活動などの環境問題に関連する諸問題を、国連に訴えることである。取り組みの結果1992年3月、コスタリカで国連主催の「環境と開発に関する国際青年フォーラム」の開催にこぎ着けることができた。現在このネットワークは40か国以上に広がっており、コスタリカでの討議結果は、提言書として国連に提出した。  現在このネットワーク参加に参加しているのは、アメリカ・カナダ・コスタリカ・ケニア・ドイツ・チェコスロバキア・オランダ・スゥェーデン・フランス・バングラデシュ・アルゼンチン・イギリス・ハンガリー・ノルウェー・フィンランド・ウルグアイ・ノルウェー・ポーランド・セネガル・アイルランド・イタリア・イスラエル・スペイン・ルクセンブルグ・ポルトガル・インド・パラグアイ・ベルギー・メキシコ・デンマーク・オーストラリア・マルタ・スイス・バスク・ボツアナ・バミューダ・ブラジル・チリ・コロンビア・エジプト・エストニア・ガーナ・マレーシア・フィリピン・旧ソ連・香港・日本、などである。  2)北海道地区の参加者  北海道・札幌地区では、北海道大学環境科学研究科の大学院生有志の呼び掛けで、環境問題を考えるグループが結成された。そもそも「環境を科学する」はずの環境科学研究科では、リサイクルさえも満足に行なわれていない状況に失望感を覚えた環科研院生の有志が、「何らか行動を」と考えていた。そこに東京からこの企画が持ち込まれて、札幌地区の活動が始まったのである。東京の本部とは提携関係にあり、全国の団体のネットワーク化に努めている(図 )。当初のは学内リサイクル問題から関心は拡大すると同時に、次第に運動の輪は広がり、同工学部や、北海道東海大学(リサイクルサークル「リバース」のメンバー)、小樽商科大学や藤女子大学など、様々な学生が集うようになってきた。  3、A Seed 活動の一端  1991年12月には、地球サミット全国統一セミナーの一環として「地球を救うために我々は今、何をすべきか」をテーマに討論会を開始。翌92年3月には「千歳川放水路問題国際フォーラム」を開催し、この時は世界をファックスで結んで、世界各地の地域的環境問題の討論結果がフィードバックの上発信された。その他、リサイクル問題を考える「Rミーティング」なども実施した。ここでは、次の4つの行事について述べてみたい。  1)「エコ花見」 in 円山公園  A Seedの活動は何も「硬派」な活動ばかりではない。春はあけぼの、うららかな花見シーズン。日本人と宴会は切っても切り放せない関係。北海道では桜の見ごろは、ゴールデンウィーク過ぎの5月第2日曜日。札幌の桜の名所・円山公園は花見客でいっぱいになる。しかし休日の翌日、公園内はゴミが散乱し、ゴミの山と化す。そこで我々は宴のやり方を工夫してみた。割箸や使い捨て食器は御法度。そして宴の終了後、園内のゴミを自主的に拾うというオマケまで行なうことにした。ゴミを散らかさずに、汚さないで楽しんでしまうという地球に優しい「エコ花見」である(新聞記事 、写真)。  周囲を見渡すと、園内各所で花見の輪が盛り上がっている。しかし酔いが回っていることもあってゴミの後始末を気遣うグループは少ない。園内のゴミ箱がゴミで満杯になっても、その横にゴミは捨てられていく。そうしたゴミ箱の外のゴミは、しだいに散乱していく。いつの間にか園内を流れる川にゴミがころがっていく。そんな状況も見られた。  この試みを始めて既に2年。この時期の北海道気候はまだまだ寒く、毛布にくるまってブルブル震えながらの花見となることが少なくない。この「エコ花見」は、マスコミにも取り上げられたことがあり、ゴミの散乱を何とかしようとする考えの表われかもしれない。しかし、公共の場におけるゴミ拾いの実行というところまでは、まだ抵抗感があるのではなかろうか。こうした催しが様々な形での問いかけになればと思っている。  後日談:  このエコ花見の模様は、在札の民放デレビ番組に取り上げられた。番組は夜のニュースショーで、スタジオのキャスターが当方スタッフにどうしてエコ花見を発案したか、どんな容器を持参しているのかなどの質問を浴びせていた。その時キャスターが見せた驚きのまなざしが、印象的だった。  2)地球サミットフォーラムー環境NGOの今後のあり方と展開を問うー(7/17・札幌市民会館)  地球サミットが終了し、その成果をわれわれが共有し、学生の立場で積極的に関与していくにはどうしたら良いか。こうした動機から、サミットの政府間会議のみならず同時に開催されたグローバルフォーラムの参加者を中心に、パネリスト御3方をお呼びして話題提供をしていただき、自らの課題として、市民・NGOとして何ができるかを考える契機としてもらうため、開催することにした。したがってフロアからの質問や意見発表にはできるだけ応じるべく積極的に求め、努めて討論を重視した(写真 )。  まず主催者側(腰本:A Seed Japan北海道代表)から趣旨説明をしたあと、3氏から基調講演があった(司会:武田)。  地球サミット(国連環境開発会議)は、ブッシュ米大統領による条約調印拒否や、PKO法案を通すために日本の宮沢首相が欠席したことなど、多くの話題を振りまいた。世界180余国の代表・首脳が一同に会し、熱帯雨林伐採や地球温暖化といったグローバルな問題をはじめ、様々な問題を討議した。その結果、危機に瀕しつつある地球の環境を救うための憲章ともいうべきAGENDA21をはじめ、「地球温暖化防止条約」「生物多様性保護条約」「森林保全国際取り決め」などを討論・採択した。一方で具体策に乏しかったり、先進国・発展途上国間の認識の差異など、地球環境問題を解決する上での難しさ・矛盾が露呈し、多くの課題を抱えたまま閉幕したと言える。  今回のサミットの特色として、政府間会議の他に、NGO(非政府組織)による「グローバルフォーラム '92」が開かれたことである。市内のフラミンゴ公園には芝生や樹木に囲まれて、35のテントや300ものブースが設営されて、世界中のNGOが自らの視点から様々にテーマについて来場者に説明した。日本からも50団体・350人が参加して、日本国内の環境問題や環境保護運動の現状を訴えた。しかし、サミット終了時に日本はきわめて不名誉な「ゴールデンベビー賞(何もせず、ただ赤ん坊のように振る舞った国に送られる賞)」を受賞してしまった。日本政府は世界の期待を裏切り、傍観者的対応をとったことが原因である。  サミットが終り、我々は日常生活に追われている。しかしそれだけでいいのか。日常の生活様式から、環境に関する諸制度や方法に至までの広範囲ななかに多数の問題が存在し、我々はその解決方法を考案し、実施しなければならない。まさに我々の行動が問われている。(以上、司会者武田作成)  清原瑞彦(北海道東海大学教授・北欧研究・日伯交流協会理事):  今回のリオの地球サミット(国連環境開発会議)は、1972年にストックホルムで開催された国連人間環境会議からちょうど20年目の開催である。その間歴史的な激変が幾度もあり、環境に対する考え方も大きく多様化した。そうした歴史的経緯を踏まえ、日本の環境に対する国際的役割を考えてみた。 ストックホルム会議では、開催地がスウェーデンという福祉国家だったことが、会議に大きく影響したといえよう。その時の課題も、人類共通のテーマであった。1972年といえば、ちょうどベトナム戦争の時期で、アメリカなどの大国の利益が優先し、日本は経済成長の一方で公害がどんどん生み出されていた時代であった。会議での議論も、ベトナム戦争と南北問題に隠れて、満足に環境そのものを審議することができなかったのである。また東西両陣営の対立は、米ソ両大国による代理戦争の様相もあり、核実験が中止されることなく続けられていた。そうした枠組に変化をもたらしたのが、住民運動である。オーストラリアで原発が住民投票で拒否されたという事件は、1979年のこと。その後のスリーマイル島・チェルノブイリ原発事故は、大国のエゴイズムが崩壊していくきっかけとなったとしても過言ではなかろう。ベルリンの壁崩壊に象徴される東西冷戦構造の崩壊。国際政治の上からも、冷戦の次の最大のテーマは地球規模の環境問題・環境破壊なのである。こうした20年間の社会的文脈の変化は、市民・NGOの対応にも変化を与えたのではないだろうか。ストックホルムの時は政府の政策を告発していくニュアンスが強かったが、リオでは対立というよりは政府や国際機関と協調しているように見えた。それだけ市民側が、この20年間で成長したのであろう。  八木建三(北海道大学名誉教授・地質学・前北海道自然保護協会会長):  地球サミット参加者として感想を、サミットの成果、日本政府の果たした役割、日本への非難、世界のNGOが果たした役割、の主として4点から述べたい。 @地球サミットの成果としては、期待ほどのものは得られなかった。真に地球環境を守るための条約を作れなかった。しかし21世紀へ向けた展望は開けたのではなかろうか。 A日本政府の果たした役割では、日本政府が声高に「国際貢献」や「国連への協力」を唱えていたこともあって、世界中が日本のリーダーシップを強く期待していた。にもかかわらず、一片の紙片による演説要旨を配布しただけである(一時はビデオ放映も検討したという)。国連史上最大にして再重要なこのサミットを宮沢首相はボイコットしてしまったため、政府自民党の本質を世界にさらけ出してしまった。 Bこうした対応もあってか、日本への非難も少なくなかった。日本の外務省・環境庁は、公害の克服で環境保全に成果を上げたことを強調したが、東南アジア代表によるODA(政府開発援助)がかえって資源収奪や環境破壊を起こしたという実情について、厳しい意見が次々に出された。そして世界各国の代表は、日本が世界から資源をかき集めているという印象を持ってしまった。 C世界のNGOが果たした役割に関連して、今回の会議の最大の成果は、何といってもNGO地球憲章などのNGO条約を作ったことであろう。NGOの意向は政府委員に伝えられ、Agenda 21 などに大きく反映された。世界のNGOが一同に会し、深く交流・議論し、地域的ネットワークを形成した賜物であろう。国家主義から開放されたNGOの活動と協力こそが必要である。しかしながら残念だったのは、日本の政府とNGOとの間に連係が欠けていたことである。日本からは350人余りのNGO関係者がリオに来ていたにもかかわらず、サミットへの参加は大きく制限されていたことも影響していよう。双方の反省が必要である。  会議出席の感想だが、サミットで日本は、アメリカがサインしなかった2つの条約のみならず、環境基金への5年間で1億ドルの拠出を提案した。本来ならば世界から評価される内容であったのに、宮沢首相の欠席で国際社会へのアピールは台無しになってしまった。さらに、リオデジャネイロの会場周辺では武装した兵隊が物々しい警備をしていた。それは、ホームレスの人達やストリートチルドレンを文字どおり「撤去」しなければ、行事が開催できないという現実であった。我々は、首から50ドルのパスポートを吊り下げなければ、全部金網のフェンスで囲まれた会場に入れなかったわけで、平均的ブラジル人の月給の2/3を払わねばならないという現実、それに華々しい会議場と南米最大のスラムとの共存という矛盾は、つくづく考えさせられた。  東 龍夫(東リサイクルサービス代表・リサイクル市民運動家)[スライド使用]:  この度のリオには、国連環境開発会議市民連絡会の一員として参加した。前半はアマゾンにあるブラジル移民の村を訪ね、後半はリオに戻って現地のリサイクルシステムや環境自治体のフォーラムで日本の市民の主張を訴えた。また反ブッシュ大統領のデモに参加したり、現地のゴミ資源化工場を訪ね、各国NGOの人々との交流を通じて、市民レベルでの環境問題への対応の必要性を痛感した。  私が訪ねたのは、アマゾン下流域のトメアスという開拓集落。戦前から日本人が入植し、現在約1300人の日本人が暮している。国策で入植したものの、戦後は国から全く見離され、すべて自力で学校から警察まで作り、主として農業で生計を立ててきた。彼らが実践している熱帯林農業は、定住農業という日本的なものと先住民族インディオから学んだことを融合したもの。アマゾンに生きる人々による自然と共に生きている持続可能な開発手法として、将来性が高く評価されている。こうした手法を採れば、大規模牧場開発で荒れた土地や森林をよみがかえらすことができると実感した。  リオに来て私は、2つのフォーラムに参加した。1つは環境問題地方議員連盟の「環境自治体フォーラム」、もう1つは地域交流センターの「リサイクルシステムフォーラム」で、どちらも南米を中心に各国の人々が大勢詰めかけていた。日本が海外から多量に資源を輸入することの問題点や、日本国内でリサイクルに取り組む市民と回収業者との連帯を訴えた。その後、アルゼンチンの提案でリオ市内のゴミ資源化工場を見学したが、最近完成したばかりの最新鋭のもので、ゴミ処理能力は一日当たり1200t、生ゴミの全く混じっていないゴミを手で選別していく。隣接する大きな「サイロ」では、生ゴミのコンポストが行なわれていた。日本と違って、リオではゴミの焼却が「大気を汚染する」として全面的に禁止されているからであった。  途上国のNGOの人々が熱っぽく語ってくれたことは、「とにかく日本のNGOとネットワークしたい。日本人は、開発をトップダウンではなく、そこに生き、知っている住民から学んでほしい。」ということだった。巨大開発や利益優先の経済活動が、そこに生きる人々を苦しめ、環境を破壊しているという構図が、この言葉の中にまさに集約されていると痛感した。北の国の浪費と、南の国の貧困という南北問題の解決が環境を守ることである。もはや「国と国とが結び付くユナイテッド・ネーションズ(国連)から、人と人とがとが結び付くユナイテッド・ピープルズへ。」それが、フォーラム参加者の率直な感想だった。会場にいる若い方々に言っておきたいことは、豊かな国と貧しい国の関係、それに儲けたお金を出すことよりも環境を壊して儲けることを止めたほうがいいのではないか、こうしたことを途上国に出かけていって肌で体験することの重要性である。そして肌の違いを越えて共感するということ、国際的な交流が大切ではなかろうか。  また「南北問題」という場合、私は農業と工業の関係や、北海道で言えば先住民族アイヌと和人との関係、消費者と生産者の関係など、国内における身近な社会的諸矛盾も射程に入れるべきだと思う。  質問・討論:  多くの人に発言してもらうべく、どんどん指名したので、活発な発言があった。  地球環境問題の背後にある南北問題の構造が理解できた。普段の日常生活、例えばコンビニエンスストアへ行って何でも買えてしまう生活。そうした時に使うお金や豊かさが、一体どこからどこへ流れていくのか考えた時、偽善者的な良心の呵責に強く駆られることがある。贅沢や消費中心のライフスタイルをいかに変えてリサイクルに結び付けていくかを、考えていかなければならないと思った。(フロアからの発言)  質問では、他国籍企業の途上国での乱開発とODA・日本政府の方針との関係、今回提唱された「持続可能な開発」の概念について、リサイクルの方法を教えてほしい、「割箸問題」に対してビートたけしの「なぜ地球に優しいのか、どうして後世のためにやらなければならないのか」(『新潮45』)との見解・価値観をどう考えるのか、などがみられ、それぞれ講師の解答を得た。  また意見としては、日本政府のブリーフィングの方法が下手なのではないか、リサイクルは新聞紙にしろ牛乳パツクにしろ一回だけではなく継続的に行なう必要がある、間伐材を利用する割箸よりも紙のリサイクルの方が大切ではないか、車やタクシーに乗らずにビールも飲まない生活を一度考えてみたらどうか。こうした様々な発言があり、盛会のうちにフォーラム終了することができた。  余談:  地球サミットに関しては、マスコミが熱心に取り上げたこともあって、関心はかなり広がったといってよい。しかし、問題はその内容である。国会議員は利権が伴わない政策分野だとして、つい最近まで関心を示さなかったが、にわかに対応が変わってきた。竹下元首相は、東京で「環境賢人会議」を催すなど外面的には積極姿勢を示すなど、「環境の竹下」を売り込む姿勢をした。しかし半年もたたないうちに佐川スキャンダルが発生し、ダーティなイメージが先行し、とても「環境」どころではなくなった。また、東京での「賢人会議」の報告会を聞く機会があったが、環境問題に対して日本のリーダーたちの発言に具体性が乏しかったことには、がっかりさせられた。例えば、海部前首相(当時)が自ら行なう環境保護への行動として語ったのは、「名刺に再生紙を利用し、明記させていること」程度のことだったことである。参議院選挙(当時)でも、環境問題は争点にはならなかった。日本人の環境問題への認識の甘さとやるせなさを、改めて実感した。(以上筆者武田)  3)ビーチクリーンアップ in 銭函海岸  海水浴シーズンが終った1992年9月の日曜日、札幌と小樽の中間に位置する銭函海岸。夏のシーズン中の人混みはすでにないが、夏の人出の名残りはゴミの山。我々は、この海岸での清掃活動(ビーチクリーンアップ)を企画した。清掃活動は、国立公園をはじめ様々な場所で様々な団体によって実施されている。しかしゴミの増加が余りにも大きく、地域を美化することは並大抵のことではない。  当日の参加者は60人余り。各人にゴミ袋を渡し、軍手をはめてスタート。砂浜のあちらこちらに大量の空缶、波消しブロックの間にもたまっていた。そして、ハングル文字のビニール袋。日本海の対岸の国に思いがはせる。中には医療廃棄物の注射針もあり、危険極まりない。注射針は後に行なわれたゴミの分別後の報告の席で、参加者に報告された。本日の成果は、満杯のゴミ袋100袋ほどだった。  後日談:  当日のビーチクリーンアップの模様は、在札の民放が取材に来ていたこともあって、30分のテレビ番組として後日放映された。しかしその番組は日曜日の早朝6時から放映されたこともあって、視聴者はかなり限定されていたのではとの声もあった。作業後、昼に海岸で大鍋で煮た豚汁をほうばっていた時、テレビのレポーターは、参加者に意見をたくさん聞いていた。しかし番組では編集によってかなりカットされていた。また、テレビ写りの良い意見もあったようで、マスコミへの接し方の重要性が認識された。  4)スピカーズツアー in 札幌  A Seedでは1993年3月中旬、国際青年環境講演者ツアー(スピカーズツアー)を開催した。全国各地で環境問題に関心を持つ外国人青年が、日本人との交流を通じてと共に考えるという試みであった。テーマは、リサイクル・ゴミ問題、原発・エネルギー問題、自然観察、スキーリゾートの見学、自然保護団体との交流、タウンウォッチング、長良川河口堰建設現場の視察、水俣病資料館の見学、熱帯林伐採・他国籍企業の行動などに関する講演会・討論会、などである。開催地は、札幌・弘前・秋田・仙台・新潟・宇都宮・埼玉・千葉・東京(3会場)・山梨・松本・静岡・名古屋・大阪・鳥取・広島・松山・北九州・鹿児島の21会場で、主に全国の大学所在地といえる。海外からの参加者は、6班にわかれ各班とも2週間で3〜5地区をまわり、各地で行なわれる行事に参加し、広島での全体会合で合流するというもので、かなりハードなスケジールだったのではないだろうか。  札幌では海外からの参加者(スピーカー)4人を招いた。彼らのオーガナイズ歴、関心をもつ環境問題、今回コミットしたい活動は、次のとおりである。 チャド キスター(アメリカ・男・22歳・オハイオ大学・ジャーナリズム専攻):  全学レベルでリサイクル運動を主宰。5000人の署名を集め、ゴミ拾い行進イベントで集めた物を役所で処分してもらうべく玄関に積み上げ、マスコミを注目させる。オハイオ州で最も大きな公害発生源であるBritish Petrol (BP) 社への反対運動や、キャンパス内カフェテリア(学食)での菜食主義者向け献立の増強運動も手掛ける。野生動物の保護にも関心があり、北西アラスカの北極圏野生生物保護区の油田開発に疑問を抱き、バックパッキングで4週間 530kmを歩いた。日本人青年活動家との交流を通じて、日本の環境問題の一端を体得すると同時に、我々が培ったノウハウ、運動の組織・コンセンサスの形成・創造的で楽しい資金集め・運動を成功に導くためマスコミをどう使うかなどについて意見交換したいと語る。 ミヤ ヨシタニ(アメリカ・女・23歳・イリノイ大学・歴史・女性学専攻):  高校時代以来5年間、リサイクル・殺虫剤問題・有害物質・水質・絶滅種動植物などから環境的人種差別までと幅広い環境問題への活動をオーガナイズ。現在の関心事は、環境的公平、すなわち社会的不平等・多国間の権力の不均衡が地球的規模での環境悪化の大きな原因ではないかとする視座から、こうした危機の唯一の解決策が国際的に青年による活動であると考えている。自然な素材(例:酢など)を使って清掃するといったエコ・クリーニング・ビジネスも手掛けている。日本の青年との交流には大いに期待しているという。名前が示すとおり、彼女は日系3世。祖父母は横浜出身だそうである。 ダニー ケネディ(オーストラリア・男・21歳・マクアリー大学・環境法専攻):  社会問題に関する青年団体に参画。高校生・大学生のグループ相互のコミニュケーションを図るべく活動中。さらにオーストラリア環境青年同盟に設立時から参加し、オーストラリア環境保護基金や海外援助委員会ではスポークスマンとして、1990年には国連でのモントリオール議定書をめぐる会議の際ロビー活動を実施。地球サミット時には、会議の6週間前からリオに滞在し、青年団体のマスコミ対策をプロモート。シドニーでは2年間にわたってラジオジャーナリストとして"Environmental Matters" というFM番組を担当。目下の関心は環境法を広範囲に機能させるにはどうしたら良いかということ。また制度の変革には、自らの行動も必要ということで、国内の国立公園で少数民族・アボリジニーとの共同管理についての調査も手掛けている。日本での体験に多いに期待を抱いているが、帰国後体験を広めたいという。 モニカ マンダナー(ネパール・女・27歳・トゥリウバン大学シャンカーデブ校):  ECCA(保全意識強化のための環境キャンプ)の評議員。1991年11月には「水とエネルギーにおける女性たち」会議でコーディネーターをつとめる。大掛かりな植林活動や、「ネパール林業における女性たち」という運動も組織する。現在の関心は、環境の重要性を浸透させるためにも、若者に環境保全教育を実施することに大きな興味がある。日本の若者には、ネパールの環境問題に対して、抗議してくれれば破壊を止めることができるということをアピールしたいという。アジアからは北海道に来た唯一の参加者である。  彼らを迎えたのは3月14日の朝のこと。札幌ではこの時期はまだ冬の余韻があり、雪の残る札幌駅に、前の滞在地・宇都宮から寝台列車で到着した。札幌での行事は、「リサイクル」のテーマを中心に、講演会・交流会・処理工場の見学・資源回収の実体験・討論会・リサイクルアートの体験と、盛り沢山の内容だった。  一日目(3/14)には、午後からまず「海外におけるゴミ問題の現状とリサイクルの実践」(札幌国際プラザ)をテーマに、講演会を行なった。日々の暮しの中でますます増えるゴミ。ゴミの減量化は一人一人の課題といえる。北海道と海外の現状を踏まえ、ゴミ問題とリサイクルのあり方を考え直してみようと試みた。パネラーは先のフォーラムでも報告された東龍夫さん、それに海外スピーカーに意見を述べてもらった。リサイクルの重要性は認識しつつも、いざ自らはどんな行動を起こしたらいいのか、そうしたギャップを実感したというのが、当日の場内の雰囲気であった。  夜は、札幌の路面電車車内で酒を組み交しながらの交流会であった。料理はスタッフ手作りのもの。参加者は50人を越え狭い車内は熱気でいっぱいになった。西4丁目を起点にススキノを折り返す2時間ほどは、路面電車の程よい揺れとほろ酔い気分の中あっという間に過ぎていった。  二日目(3/15)は、海外からの参加者をまじえ、2班に分れて市内のフィールドトリップ(巡検)に出かけた。A班は、札幌市北区の篠路清掃工場と資源化工場を見学し、B班は、東リサイクルサービスのリサイクル資源回収の実体験した。このうちA班では、工場の能力増強がゴミの増加に追いつかない状況や、資源化のための分別方法などの説明があった。  午後の事後報告会では、グループごとにメリット・デメリットを列挙していった。特にA班に参加した海外からの参加者から、リサイクルの方法について疑問が投げ掛けられた。彼らの論点は、ゴミの減量化に取り組まずに焼却の技術開発ばかりに力点が置かれていることへの是非にあった。また、資源化工場では、可燃ゴミにプラスチックを混入させて燃やしていて、フィルターを通しているとはいえ排出ガスに不安がないのかという意見であった。国内での論議との違いをあらためて感じた。またスタッフは食事の方法で、ゴミの量がどれだけ違うかを試みてみた。この日の夕食は市販の弁当を買ってきたもので、袋・容器・ラップ・割箸・コップ・カンなど多量の使い捨てゴミが出た。一方、翌日の昼食は、ハンドメイドの食事で、食器は後で洗う手間がかかるが大したゴミは出ない。改めてライフスタイルとリサイクルの関係を実感した。  三日目(3/16)は、郊外の札幌芸術の森に会場を移して、牛乳パックを原料に和紙の紙すきとリサイクルアートを楽しんだ。三日目は、どちらかといえばレクリェーション的要素が強い。当日は雪が降り、思わず屋外での雪合戦にも熱が入った。現地で解散し、次の訪問地へ向かった。  こうした全国各地でのツアーを体験したあとで、各団体は広島に一同に会し、3月25〜29日の全体集会(国際青年環境開発会議)で各地での体験を報告し、今後の活動の方向性を議論したのである。  後日談:  外国人を招いた時の最大の障害は、言葉である。今回のスピカーズツアーでは、通訳として東京の本部から一人が同行したほか、札幌側でも北大環境科学などに留学中の日本語が達者な大学院生に通訳をお願いした。講演会では、こうした通訳のあり方、すなわち母国語で聞いて外国語に訳して話すことは負担が多過ぎるのではないか、との意見が出された。もっともなご意見で、主催者側でも他に方法がなかったのでお願いした経緯がある。また、積極的に外国人と意志疎通ができなかったことも残念だった。語学をはじめ、外国人との接し方を学んでおく必要がある。  この行事へのPRとして、民放テレビ番組の札幌駅前での街頭放送に出演した。この時複数の団体がイベントの中でもわれわれのイベントは硬派であった。テレビ局のレポーターは、「環境問題は重要だけれども。君達それだけ伝えればいいんじゃないの。」と、他の軟派なイベントの紹介にマイクを向けていた。マスコミの関心もこの程度かと感じざるを得なかった。  4、「環境問題」を考えるこれまでの活動を振り返って  以上、まがりなりにもNGOの一メンバーとして活動に加わってきたのであるが、若干感想を述べてみたい。第一に、便利なライフスタイルに慣れた生活を、意識改革によりコントロールしようとするのは、並大抵のことではない。少しづつ継続的に動いていく以外ないのであろう。第二に、新たな市民運動というか活動は、特定のテーマで結集しながら徐々に幅を広げていく方法が良いのではなかろうか。また、様々な行事に参加し色々な人と意見交換するのも大切であろう。三点目は、マスメディアとの関係である。札幌は民放テレビ各局が軒を連ねているため、ごく身近な話題でもすぐに取材にやって来る。本来なら、市民とマスコミとの距離はこの程度であることが、参加の視点からも良いのではなかろうか。