武田論文集(秋田経済法科大学 地域研究所研究所報1 1995)   東北地方の鉄道運営と「効率化」の現実   ー地域開発に果たした歴史的展開と新型車両導入問題からの検討ー               武田 泉(札幌大学教養部非常勤講師) 1、はじめにー鉄道専門知識の独占ー  鉄道など公益事業は、地域に密着した日常必需な存在であり、公共性と同時に効率性も発揮が期待されている。事業者(現業機関)と行政機関の両方を兼ね備えた国鉄は、分割・民営化で規制を弱めた特殊会社・JRとなったが、現代の競争的交通市場の中、依然として地域的に強い独占力を保持している。同時に、専門知識が複雑に絡み合ってブラックボックスの部分が多い。このため部外の専門家が少なく、不人気な政策実施に対しては、中央政府の監督行政の不備や地方自治体の当事者能力の欠如も指摘される(武田、1994)。とりわけ、採算裡の運営が困難な地方における特殊会社としての鉄道運営では、首都圏などの収益分野の鉄道運営と異なり、解決が困難な問題が少なくない。さらに、昨1994年は奥羽本線青森〜弘前間の鉄道開通百周年と節目の年にあたるが、同時に新型電車導入をめぐる事業者側の「効率化」の論理が、地元に問題を投げ掛けている。本稿では、こうした地方における特殊会社による鉄道事業の現状を、背景となる鉄道建設や管理組織の変遷などの歴史的事実や、ソフト面の接客技術的項目を踏まえて明らかにし、今後の議論の端緒とすることを目的としている。 2、鉄道建設時代における関係  1)日本鉄道と官設鉄道  今日の地方名称である「東北」は、戌辰戦争当時に藩閥政府が呼んだものである。鉄道は文明開化のバロメーターであり、開発の進展を如実に表わす存在である(岩本、1994)。当初、鉄道の建設・運営は官営が原則だったが、西南戦争後の財政危機の打開策として例外的に鉄道建設と運営に民間資金を導入しようとした。日本鉄道株式会社は、以前新橋〜横浜間鉄道の払い下げを企画した安場や蜂須賀ら旧藩主を中核とした華族組合が、右大臣岩倉具視が旧大臣の公卿金禄を得て、1881年(明治14)に資本金2000万円で設立された民間会社である。同社は、中山道幹線鉄道の一部と北海道連絡・東北地方開発を担うべく、意図されたものであった(長岡、1979)。上野〜高崎間が部分的に開業した頃から、北関東の絹織物を東京・横浜市場へ輸送する手段として脚光を浴び、利根川の船運や中山道からの転移が進んだ。最終第5工区の盛岡〜青森間の建設では、軍部は現在の花輪線ルートにあたる内陸の通過を主張したが、難工事と工費の膨張を回避するため、現在の八戸(尻内)経由の海岸部通過ルートとして建設された。鉄道全通で、東北地方にも文明がもたらされ近代化に寄与したが、結果的に東北地方が東京に対し食糧・労働力の供給地として外部資本による投資を助長する構造を作った。このため、今日に至都市と農村の格差を固定化することになった。この当時、新渡戸稲造はすでに「農業本論」の中で、都市の増進と田舎の衰退を指摘していた。  一方奥羽本線は、日本鉄道会社線の青森・福島を起点として、当初から官設鉄道として建設されるが、それは日本海側が取り残されるという焦燥感から、鉄道誘致運動を進めた結果である。1892年(明治25)の鉄道敷設法では、33路線が建設線として挙げらた。このうち奥羽本線は、第一期線として日本列島を縦貫する中央・北陸・信越・山陽・呉・九州(鹿児島)・長崎・佐世保線などと同時に建設された。これらに、12年間で6000万円の建設予算が計上された。この時期は幹線伸長時代であり、日清・日露戦争を契機として急速に社会・経済が発展した時期にあたる。また、沿線に師団・連隊・軍港などの所在地を経由する傾向もあり、参謀本部陸軍部による『鉄道論』でも「海岸に接近すると敵軍の襲撃に危険」と言及があるなど、内陸鉄道建設が軍部の強い意向のもと行なわれた。しかし、急峻な奥羽山脈を越えるため難工事に見舞われ、開業後も矢立峠・院内峠・板谷峠など県境の急勾配区間では、特殊設計の補助機関車(補機)も導入されたが、大釈迦トンネルの前後を含め、長期にわたって輸送の隘路に悩まされることになる。  1894年(明治27)12月1日、青森〜弘前間に官設鉄道が開業し、青森・新城・大釈迦・浪岡・川部・弘前の各駅が開設された。明治維新と廃藩置県時の混乱で県庁を青森に奪われ沈滞ムードにあった弘前にとって、鉄道開通は久し振りの活気を取り戻す契機となった。鉄道敷設にあたり、比較線として藤崎経由案や黒石経由案も浮上したが、結局浅瀬石川と平川の橋梁建設との関係で妥協し、田舎館村川部経由に落ち着いた。川部は、津軽鉄道(先代)でも計画された地点だが、後に陸奥鉄道との連絡駅となった。そして1909年(明治42)、この鉄道路線に奥羽本線の名称が付され、幹線としての役割を担うことになった。  2)鉄道敷設・鉄道国有化と東北開発  ここで、奥羽本線建設当時の時代背景に触れる。1906年(明治39)、幹線を形成する主要な17私鉄を「一般運送ノ用ニ供スル鉄道ハ総テ国ノ所有トス但シ一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道ハコノ限ニ在ラズ」の方針のもと国有化され、当時の鉄道路線の90%が買収された。その背景として、買収による不況の救済、軍事輸送など国内一貫輸送体制確立の必要性が指摘されていた(日本国有鉄道、1972)。またこの年代は、創業以来の鉄道略則を改めた鉄道営業法の制定(1900年)をはじめ、私設鉄道法、遠距離逓減運賃制度の採用(1899年)、保安・信号取り扱いに関する規定、さらには木下淑夫の尽力によりジャパンツーリストビューローが開設され、鉄道案内所をはじめとする旅客サービスの基礎ができるなど、現代まで引き継がれる様々な鉄道制度が確立した時期であった。 3、鉄道運営の変遷と幻の青森鉄道管理局  1)国有鉄道管理組織の変遷  国有鉄道の管理組織としては、当初は民部・大蔵省鉄道掛から、工部省鉄道寮が担当していた。しかし、建設が進み組織が次第に全国規模になると、1897年(明治30)には逓信省の外局として鉄道作業局が設置された。この際、青森・福井・八王子など当時建設中の箇所には鉄道作業局出張所が置かれたが、建設の進展に伴ない青森出張所は1902年(明治35)、秋田移転のため廃止されている。1906年(明治39)の鉄道国有化後2年間は帝国鉄道庁に改組されるが、結局、1908年(明治41)には内閣直属の鉄道院となった。全国を5つの鉄道管理局(東部・中部・西部・九州・北海道)に分けて管轄していた。このうち東部鉄道管理局は、東北(山手を除く)・奥羽・岩越・陸羽・信越・総武の各本線を管轄し、地方組織としては建設事務所の他運輸・保線・出納事務所と工場が置かれた。青森にはこのうち運輸・保線・出納事務所が設置され、当初から鉄道の拠点であった。逆に盛岡には、こうした機構としては工場以外設置されていなかった。1919年(大正8)には名古屋局と仙台局間に(1935年になって広島局)が増設され、翌1920年(大正9)鉄道院は鉄道省に改組され鉄道管理局は鉄道局と名称が変更される。この当時、地方部局は「方面を異にする各線を系統に従い分轄するを至当とする」との方針が打ち出されていたが、東北地方は仙台局が一元的に管轄していた。  この間、奥羽本線に接続して羽越本線が建設途上にあった。秋田県内の折渡トンネル建設は難航したが、当初陸羽西線として建設された山形県部分や村上線の新潟県部分を合わせ、羽越本線の全通は結果的には1924年(大正13)と遅れている。この結果、奥羽本線(北部)・羽越本線は北陸本線などと共に日本海縦貫線を形成し、北東北・北海道と新潟・大阪方面を結合する。特に大館〜長岡間は急勾配区間がなく、補機なしで貨物列車の運行が可能であった。このため、大館は補助機関車解結(付け替え)の必要で、鉄道運行上は都市規模の大きい弘前より重要性が高まった。  1936年(昭和11)新潟鉄道局が、仙台・名古屋両局の業務量調整と雪害期の輸送力確保を目的に設置された。これで、管轄区域が表日本・裏日本と分割されるきっかけとなり、管轄区域も日本海縦貫線の結び付きを重要視して秋田・山形県内の奥羽本線や羽越本線は新潟管内に編入された。1942年(昭和17)には戦時輸送への対応を目的に、運輸・保線・電力の3事務所を統合して管理部に改編された。しかしこの時も、奥羽本線系の青森県部分の全ては東北本線とともに、仙台局管轄の青森運輸事務所がそのまま青森管理部に移管され、一体的に運営されていた。  2)なぜ青森鉄道管理局は実現しなかったのか  第二次世界大戦後、早くも青森から鉄道管理部門が消滅していく兆しが現われる。まず手始めに、戦争で壊滅的被害を受けた青函連絡船の一体的運行を目的に、函館・青森両管理部の船舶課が廃止され、新たに函館船舶管理部が置かれた。  そして、占領政策により公共企業体が発足する。ストライキなど労働問題の先鋭化に対して、アメリカ占領軍の強い要請により労働関係に関する法律や行政機関職員定員法が導入され、国家直営の鉄道事業を組織改革することがモデルとして考えられた(寺戸、1982;大蔵省大臣官房調査部、1950)。アメリカ流の能率的組織を目指すべく設置された、公共企業体(Publik Corporation)は名称の上でも「日本鉄道公社」は成立せず、日本の官僚制にはニュアンスの異なったGoverment Corporation と見なされ、能率よりは公共性に比重を置いたより役所(行政機関)的色彩の強い組織として受け取られ、「公社」の文言の付かない政府会社「日本国有鉄道」を成立させた。この問題点や矛盾は後の国鉄改革(分割民営化)につながっていく。  地方組織でもアメリカ軍の意向の反映が求められ、大規模な人員整理の断行が不可避となった。このため、鉄道局と管理部の合体で縦に4段階の管理組織を3段階に簡素化し、49の管理部を廃止して9鉄道局を27鉄道管理局に再編し、職務と責任の範囲を明確化しようとした。このように、鉄道創業以来の大規模な機構改革であった。この時、最も問題となったのは局の分界点をどうするかであり、地域的にするか線区主義とするかであった。部内では23〜24局が適当と考えられていたが、与党筋の意見や監督者たる運輸省の了解を得なければならず、結局27局に落ち着いた。決定案ができるまでは、様々な圧力が予想されるため、ごく内密に処理していたという(国鉄百年史・通史編)。  地元青森では、発表前日まで想定19局を、千葉に新設、新潟を新津に、大阪は梅田と天王寺、九州の鳥栖の脱落、などと予想していた。翌1950年(昭和25)6月14日、鉄道局長会議で地方組織改組が発表されたが、青森局はなく、まさに「驚天動地」の内容だった。地理的条件から有利とされ、誰もが信じて疑わなかったため、国鉄現場職員も「県民・職員ともただ呆然自失」(阿保与三郎青森駅長)と指摘するほどの状況だった。青森は政治的にも詰めが甘く、油断していたのである(東奥日報)。  この決定に至った直接の要因は不明だが、状況証拠についてはいくつか指摘されている(東奥日報)。第一に、アメリカ占領軍(GHQ)総司令部の意向である。民間運輸局(CTS)のシャグソン陸運部長の構想として、経営組織線区ごとの運営が示唆され、一つの線区はなるべく一つの局が管轄するのが合理的だと考えられた。そして、当初16局案を提示してきた。私鉄が中心のアメリカでは、行政区域にかかわらず鉄道会社別(線区別)の鉄道運営が当然と考えていた。そして、鉄道管理局など鉄道管理部門の所在地は原則的に旅客・公衆には関係なく、旅客や荷主にとっては駅と列車を中心に利用すれば事足りるわけで、サービスが適正に行なわれている限り、局がどこにあろうと社会の利益には関係ないと思っていた。しかし実際には、後述するような地元政治勢力と結託した局の誘致運動が行なわれたため、総司令部側には驚きをもって受け取られた。鉄道職員が裏で政治家を操っていて、総司令部の政策へのレジスタンス画策ではないのか、などと疑心暗鬼になったという(国鉄百年史・通史編)。  第二に、青函連絡船の管轄と、青森の抱える鉄道組織との関係である。民間運輸局のミラーは、連絡船の管理運営は鉄道と性質が異なり、あくまで独立してなければならないと強硬に注文を出した(国鉄百年史・通史編)。当時青森には工場や工事事務所・ドックなど船舶と陸上輸送を一体化する組織がないものの、秋田には工場(土崎)、盛岡に工事事務所があり、微妙に影響したとも考えられる。  第三に、青森の持つ政治力の貧困さである。一方、秋田県の猛運動と岩手県の裏面からの工作があったとされる。関係者は6/14の会議でも「ほんの30〜40分前まで青森の名があった」と述べ、「政治的に相当な工作」を示唆する。決定当日に盛岡が急浮上したが、当時は自由党の第三次吉田内閣の時代であり、盛岡には岩手県選出の小沢左重喜郵政電通相が、秋田には石田博英自由党副幹事長が控えていたことの影響が取沙汰された(東奥日報)。決定後、山崎運輸大臣加賀山国鉄総裁「地域的な示唆はなかった」とし、青森を訪れた土井清仙台鉄道局長も「政治取引の不正はない」として、「青函輸送の一体化・強化は当初からの構想。函館に作り青森を外すというのは、会議の前日から決まっていた。」と一応政治的関与を打ち消しているが、答弁は要領を得ないままであった(東奥日報)。  青森県側は、誘致期成同盟会の会合が決定まで一回も開催されないなど、根回しの不足と詰めの甘さが露呈された。政治的責任を取って自由党の山崎岩男代議士が辞表提出し(後に撤回)、青森市長が国民民主党の脱党などの騒動に発展したが、決定の巻き返しには至らなかった。  そして同年8月1日、盛岡鉄道管理局の成立で、青森から国鉄の管理部門は姿を消す。同時に、新潟鉄道局から秋田鉄道管理局が分離成立する。このため青森県内の国鉄線は、青森管理部から東北本線系(盛岡局)・奥羽本線系(秋田局)・青函航路系(青森駅・ヤード;青函局)への3分割と、青森管理部での1967人にのぼる解雇者を出すという悲哀をなめることになる。一応、青森(盛岡局)と弘前(秋田局)には駐在運輸長が置かれたが、実質的な鉄道の管理機能が青森に存在しなくなった。占領軍による鉄道政策の不利益のしわ寄せを、青森が一身に背負わされてしまった。このため、列車ダイヤや施設改良など鉄道運営のあらゆる面で、現在に至るまで計り知れない不利益を被ってきたのである。  分割民営化により成立した新会社・JR東日本でも、従来の管理組織は基本的には変更されることなく踏襲され、実際の鉄道事業運営も、国鉄時代の鉄道管理局を引き継いだJR各社の支社があたっている。秋田局のうち山形県内陸部(新潟支社の羽越本線系以外)は、東北地域本社(仙台)の直轄となったが、その他は盛岡局・秋田局がそのまま支店に移行後支社に格上げされ、その現業機関が列車運行を実施している。一方青森には、東北地域本社(仙台)直轄の青森営業事務所が設置され、後に支店となった。しかし、スタッフは十数人で業務は広報PRと部外調整のみであり、現業機関を持たず運行責任がないため当事者能力を有していない。このような状況は東北新幹線が盛岡打ち切りとなり、新幹線延長建設計画の大幅な遅延に少なからず影響していると考えられる。  3)旅客輸送の変遷  旅客輸送は、奥羽本線全体(列車キロ;年間26億18百万人キロ)と弘前駅(乗車人員;一日当たり9337人)の場合、1974年が最大と1970年年代にピークを迎えた。しかし、それ以降は減少傾向が続き、現在では奥羽本線全体の列車キロベースで最盛期の半分以下、弘前駅乗車人員でも6割程度となっている。このため、いかに歯止めをかけるかが課題である。1970から80年代にかけて、国鉄は近代化計画の一環として、無煙化と主要幹線の電化・複線化を行なった。裏日本を縦貫する奥羽・羽越本線は、予算の関係で秋田管内を中心に単線と複線が互い違いに介在する形態となったが、青森〜川部間は単線のままで、青森〜弘前間は依然として列車運行の制約が大きかった。1980年代、秋田鉄道管理局は複線化断念の見返りに、青森〜弘前間に快速列車「岩木」を増発し、普通列車は現在並みの運転本数となった。分割・民営化直前の1988年11月ダイヤ改正では、客車列車の一部区間(弘前〜大館間)を気動車化して短編成化と折り返し運行に備えた。さらに、昼間に青森から五所川原直通の快速も増発され、そのダイヤがJRに引き継がれていた。  しかしJR発足後の今日、詳細な鉄道統計が部内限りとなって情報の管理が進み、大都市以外の駅の定期・普通券別乗降人員・断面交通量・列車別交通量(ノリホ;旅客人員報告書)・線区別収支係数など、ほとんどの生データが非公開となり、むしろ一般の私鉄の方が今日では情報公開が進むようになった。このため、JR側に都合の良いデータのみが公開されJR側に有利な議論が展開されている一方、地方自治体はおろかJRを監督する運輸省にデータが渡されず、十分な指導監督が及びにくくなってしまっている。 4、新型車両導入問題の経過  1)国鉄改革と現業業務「効率化」の理念  国鉄改革による分割民営化で、貨物会社を分離の上、新会社・JR東日本が特殊会社として成立した。この会社の経営手法は、三大都市圏の大手私鉄をモデルとした収益重視にあり、採算性によりセグメント(輸送分野)別に対応することで、旅客サービスの「改善」を外見的にアピールすることである。そして、運賃など政府の規制を受ける鉄道・交通事業から、海外旅行を中心とした旅行業やリゾート開発など、その他関連事業へ大きくシフトさせようとしてきた。例えば秋田支社管内では、民営化直前に旅行者や通勤・通学客(高校生中心)をターゲットに直営店舗「アッキー」やコンビニエンスストアを主要駅に開店し、鉄道部門職員の配置転換を実施した。この店舗は、当初廃棄された鉄道部品・用品の販売からスタートしたが、現在はトラベルグッズショップ(DPEなど)やテイクアウト・軽食中心の「いなほ亭」などへシフトしている。  鉄道運営も、新会社発足後5年間がちょうどバブル好況期にあたったこともあり、列車ダイヤも地域密着型を意識し、首都圏を中心に国鉄時代にない迅速さで、積極策な改善対策が取られた。秋田管内では、景観のすぐれた五能線活性化策としての、眺望列車ノスタルジックビュートレインの運行が挙げられる。普通列車用の50系客車の一部を改造し、冷房付き・オープンデッキの展望車とし、旅情をそそる大宰おさむの大正ロマンイメージを演出した。この車両は指定席として追加料金 500円を要したが、都会からの旅行者の心をつかみ、さらには観光シーズンの秋田からの直通運転も行なわれた。しかし、青森直通は支社界をまたぐため実施されていない。  改革後5年を経過すると、一転して不況が長期化し経済状況のトレンドは様変りした。そして、上場による「完全民営化」をめざすJR東日本は、東京証券取引所の上場基準や株価を睨み、一般旅客よりは機関投資家やエコノミスト(主として東京圏在住)に照準を合わせ、採算性確保が求められた。このため、収益分野である首都圏の国電や東北・上越新幹線は、世論の厳しいチェックと批判を浴びることもあって、輸送改善策が進展した。しかし、地方を中心に現業部門の合理化(作業近代化と人員削減)の要請はきわめて強く、JR東日本では国鉄時代の暗いイメージの払拭を狙って「合理化」を「効率化」と言い改めつつ、実施されていった。例えば駅の「効率化」では、組織面でCTC管理の導入(支社ごと)で、運行部門(列車運行・指令など)は駅から分離されなど、駅長の権限は変化した。また、駅の無人化で有人直営駅は大幅減少し、拠点駅の駅長は地区長(かつての運輸長機能を拡大し、被管理駅・運輸区・保線区・直営売店など地区内の現業機関全てを統括)も兼務するなど、権限が拡大した。駅内の旅客施設でも、電算化(コンピュータ化・POS型売上自動集計システム採用)を背景に、出札・みどりの窓口・鉄道案内所の統合、営業時間の限定(特にトクトクきっぷの発券が早朝・深夜にできない)が実施された。さらに、待合室の廃止・縮小や椅子・ストーブの撤去、待合室自体を廃止した駅も見られるなど、駅の公共スペースの合理化や不採算部門からの撤退と、収益部門・非現業部門への特化が、事業者ベースで顕在化している。  2)新型車両の構造と設計理念  そうした中JRによる、東北地区への新型電車(701系)導入問題が浮上する。北東北の幹線は、特急列車も走り交流電化されているが、これまでローカル普通列車は、電気機関車が客車を牽引して運転されていたため、電車は投入されていなかった。この方式では、折り返し時の機関車付け替えなど付帯作業が多く、車両・乗務員運用が非効率的なので見直しを迫られていた。背景として、機関車が老朽化し客車列車が減少したことや、旅客・貨物会社が分離され新型機関車が製作されにくい点、が挙げられる。こうしたことから、要員効率化と多少のスピードアップの方策として、新型電車導入が企画された。  好況から不況への変化で、JR新会社の車両設計面にも変化をもたらした。国鉄時代の電車は用途別に、通勤型(山手線など大都市通勤線区用)・近郊型(東海道線や山陽線など大都市近郊線・地方幹線用)・急行型・特急型に形態が分類され、形式照合でもそれぞれ2けた目が、0・1〜2・5〜7・8と区分されていた(表 )。また、座席の形態は順に、ロングシート(長椅子型)・セミクロスシート(ロングとクロスの折衷型)・固定式クロスシート(向かい合わせ型)・リクライニングクロスシート、とされていた。しかし近年のJR(特に東日本)新型車両では、近郊型車両を製作せずにロングシートの通勤型で代用し、乗客に立たせる傾向が顕著になってきた(東京近郊各線区の 113・115・211・415系の改造、高崎地区の 107系など)。そして杓子定規に、東京圏と同じ設計を地方にも押し付ける傾向が顕著になってきた。 *JR設計の最近の新型特急の形式数の増大で、8では番号が不足するため5番台が命名されているケースがある。また、JR西日本では大阪圏の中古通勤型車両を、和歌山・広島・岡山地区へ転属させ、JR東海でも静岡と名古屋地区のうち私鉄と競合しない線区を意図的に選択してロングシート車を投入したため、着席率の大幅低化を招いている。  世界的傾向としては、欧米都市鉄道の混雑状況の調査過程で、欧米諸国では着席が前提のクロスシートが主流(伊東、1994)なのに対し、アジア諸国では、長椅子型のロングシートが中心という傾向も認められる。すなわち、ロングシート主体の「詰め込み思想」はアジア的な発想である。そもそも、定員に吊り皮(輪)分の「立席」定員を含めるという日本特有「立席定員」概念を、監督官庁たる運輸省が公認し、政府自体が一極集中や過疎過密問題の是正を放棄している点は、実に驚くべきことである。採算裡な私鉄運営の成功を模範とした「効率」を優先するあまり、東京圏の「殺人的ラッシュ・通勤混雑」を放置し地方にまで拡大するという、日本の鉄道行政の貧困さを象徴する構造が、このロングシート問題に凝縮されているのである。  鉄道車両の座席構造など接客アコモデーションについて、曽根(1993)は、ロングシートのメリットとして、@座席数に大差がない、A立ち席スペースでは断然楽である、B知らない人と膝を突き合わせたくない、C奥までなかなか侵入できない、D乗降に時間が掛かり、列車の定時運行ができない、E乗客(の一部)が都会の電車の「センス」を望んでいる、Fラッシュ時に詰め込める方が経営上得策である(鉄道事業者の本音)と整理し、一方クロスシートのメリットとしては、@乗り物は前向きに座るのが自然である、Aロングでは飲食もできず傘も置けない(逆にアルコール依存症に見える)、B着席したいがその可能性が低いロングはいやだという声なき声(乗客の本音)、などを挙げ、総合的に見ると、接客設備の悪化が否定できないとしている。  では、この 701系新型電車の接客設備・アコモデーションは、一体いかなるものであろうか。この電車は、東京・大阪の国電や地下鉄と同じ長椅子型(ロングシート)で、JR側の宣伝パンフレットによると、「都市型シティーライナー」「ワイドな通路と乗り降りがスムーズな両開きドア」「一人ずつ区分されたオールロングシート」と表面的な謳い文句が述べられている。  しかしながらこの車両の運転開始後、地元新聞社には苦情の投書が続々と寄せられている。「ー欠点だらけの新型通勤電車ー毎日青森まで通勤していて、新型電車導入と聞き心待ちにしていたが、憤まんやるかたなくJRに再考を願いたい。@座席減少で定員が増え、始発からでも立たされるようになった。たかが30〜40分と言うが、駅のポイントでの揺れや釣り革の位置が高く、毎日疲れて仕方がない。JRは、乗客を金を払う「荷物」としか考えていないのだろうか。A寒冷地なのにデッキがなく、両開きドアが直接開き寒気がドッと入り込む。座席も冬の着膨れ時には定員通り座れず、前屈みになって肩身の狭い思いで座ることが余儀なくされている。シティー感覚を押し付けるなら、まず先に複線化と大幅な増発をすべきである。これができないなら寒冷地向きの電車導入か、せめて以前の客車に戻せ。大都会のコセコセした生活を押し付けられたくない。」極めて切実な声であるが、現状ではこのような不満をぶつける手段が限定されている。  ここで、具体的にこの車両を検討してみよう。  *接客設備ー快適性ー  @冷暖房:この地域ではじめての冷房車とされるが、一部にはわざと導入前に冷房なしの車両に取り替えていた事例が存在する。また、座席下の暖房が強すぎるが、それは首都圏と同じ発想でヒーターのみを強力にしてファンを省略したことが理由である。  Aドア:3ドアで防風板もなく寒冷地仕様として不適切なため、寒気がドッと侵入する。このため、代わりに"Do It Yourself" の発想でドアごとに開閉スイッチが設置されたが、外からは閉めることができない。そのため、ドア付近の乗客が「ドア開閉係」をしなければならず、時には乗客同志のいがみ合いにもなる。また、勝手を知らない他地域の乗客は、ドアが自動で開かないため乗降できないケースもある。  B車内放送設備:ワンマン運転用のチャイムがドア開閉の度に鳴り、ワンマン用のテープ放送が大声で流れ、耳障りで居眠りの妨げになる。  C車両側面:窓は熱線吸収ガラスの採用でブラインドを省略しているので、真夏には日差しに耐えられない。防風板や行先表示方向幕(前面を含む)の設置もカットしていて、誤乗の危険性が高い。  D車椅子スペース:国鉄時代には設置されていた便所前座席を「車椅子スペース」を口実に撤去している。しかも、この電車の出入口には段差があり駅員無配置駅も多く、とても障害者が安心して利用できるような状況にない。その上、吊り皮やゴミ箱が設置されるなど、むしろ立ち客の詰め込みスペースと化しているのが実態である。  *車両構造・性能  @設計思想:JR東日本では、首都圏の京浜東北線用の 901系(後に 209系と改称)以降の普通列車用車両の構造で、簡略化・低コスト化を追及した。その結果、乗用車のように短期のモデルチェンジを前提とした使い捨て車両となり、経済性を追及するため耐用年数を10年に設定し、陳腐化を避けるとされるようになった。JR側は、最低限の安全性が保たれる限り、快適性を二の次にして10年以上この車両を走らせるつもりとされる。  A車両構造:ツーバイフォー工法の発想で工法を簡略化し、軽量化のされすぎで強度が不足している。このため、数年の経過で車両鋼材にしわが寄り、事故衝突時の強度に不安が隠せない(東京都岩崎氏・埼玉県池谷氏私信)。  B台車構造:新技術を取り入れたボルスターレス台車だが、軸箱支持を薄い防振ゴム一枚とした極端な構造の簡略化であり、問題が多い。軸箱のストロークが抑制されて軌道状態への適応性が悪く、高速運転時や分岐器通過時には安定性を欠き、空気バネが緩衝限界を越えて完全に圧し潰される。このため、大きな衝撃が乗客を襲い、幼児が泣き出したとの報告もあるほどである(東京都岩崎氏私信)。  以上の諸点の分析から、JRが要するに徹底的な「コスト削減」を実施したことは明らかで、赤字でかつ批判される可能性の少ない地方線区の旅客サービスの低下は、やむを得ず、大したことではないと判断したと見られる。  3)新型車両導入の経過とダイヤ変更  北東北の支社では、管内の従来型の客車の置き換えを数年前から検討していて、当初は仙台地区と同様の、座席数が比較的多いセミクロスシート構造の近郊型車両( 719系)の導入を考えていた。しかし方針は転換され、車両製作一年前にはすでに 701系のイメージが、3扉・ロングシート(長椅子型)で固まっていた1)。導入計画では、立席を含めた「定員」を机上計算して必要車両数を投入しており、着席率は全く考慮されていない。この支社管内は赤字路線であり、東京の本社への予算要求でも肩身が狭くとても大掛かりにはできず、あくまで控え目にする必要に迫られた。支社レベルの自己規制で一層予算を圧縮し、座席を大幅に削減した通勤型電車の導入で構わないとの結論に至り、 701系を89両・100億円とするのが精一杯だった。これが、同支社がとった行動の真相であろう(武田、1994)。同支社では、通勤通学時以外は旅客がきわめて少なく、混雑時でも東京地区のスシ詰めのラッシュ(混雑度 200%)に比べれば大したことがないことを挙げ、さらには高校通学生がデッキから車内へなかなか入らないことによる列車の遅延防止、車内での乗客の飲食防止(マナーの悪さ)、という露骨な「本音」も覗かせている有様である。JRの東京本社側も、「辺境」に位置する同支社管内のローカル輸送に改善のインセンティブはほとんどなく、「大企業の論理」で東北地方はこれほどまでに「軽く」見られたのである。まさにローカル輸送改善を契機に、鉄道事業者側の合理化が利用者の利便性・快適性を犠牲にして、地方に無理やり首都圏の思想を押し付けることで進められたのである。 1) 701系の導入までの変更点は、客用ドア(運転室隣接)が当初の片開き(ワンマン運転や保温性を考慮)から全て同じ両開き扉(実車)への変更など、製作コスト削減を意識した軽微なもののみである。  同支社では、以上のような経過もあり不人気な政策への批判をかわすため、アメとムチの高等戦術で対応した。つまり車両の難点を、ダイヤの改善でカバーしようとしたのである。 701系は、1993年6月23日と7月21日の時刻変更で、ダイヤ(スピード)は客車時代のままで一部を置き換えるなど、段階的に導入した。1993年12月1日のダイヤ変更(改正)では、東北地方で寝台特急「ゆうづる」と夜行急行「八甲田」・「津軽」の廃止と大幅な削減がされたが、同支社管内では客車列車の完全置き換えで 701系電車が本格稼動することになった。性能向上を生かしスピードアップが図られ、料金不要の快速(ニューシティライナー)の増発は従来に見られない積極的なものであった。この結果、特急・急行より停車駅が少なく速い快速も登場したが、料金差は車内のアコモデーションの大幅な差として表われたことになる。しかし仔細に検討すると、快速増発の一部は特急列車廃止の代替であったり(たざわ 号→しらかみ5号)、普通列車が行違い待ちで、所要時間がかえって伸びた事例も見られた。また、「小さな旅フリーキップ」(快速列車も含めて土日に区間内乗り放題;表 )の発売で需要の喚起を積極的に行なうなど、表面的にはJRがPR通りの改善がなされたが、細部を検討すると必ずしも乗客の身になっていないのである。ダイヤ変更当日、自治体首長を招いて出発式(テープカット)がなされ、事情を十分に把握しない初老の男性が、「これで東北も都会並みになった」と笑みを浮かべていた。しかしその傍らで、昨日までは座れた乗客が大勢立たされた車内に、「テーマは混雑緩和」とJRの「なれなれしい」広告が無情に釣り下げられていた(写真)。座れない乗客のため息と無言の抵抗が、ひしひしと感じられるのであった。  さらに翌1994年12月3日のダイヤ変更2)では、同支社管内の客車列車の新型電車への完全置き換えを完了し、別の支社管内の普通列車(東北本線一ノ関〜盛岡間)も、30両余りと少数の車両投入で全列車を置き換えた。このため、ほとんどの列車は通常2両編成でラッシュ時に至っては7両→4両となり、座席の大幅減で混雑による積み残しも出るなど、遅刻を余儀なくされる事態も報告されている。混雑激化で、到底長時間乗車に耐えられなくなり、乗客の鉄道離れが憂慮される事態となった(岩手県関谷氏私信)。 2)このダイヤ変更当日、客車区から盛岡駅への回送中に新型電車の信号無視事故が部内処理で外部に報告されなかったり、東北本線滝沢駅構内での保線作業ミスによる脱線・衝突の二重事故も発生した。JR自らの責任による事故の処理が、不明瞭になる傾向が指摘される。  4)「無知」が招く地元の消極的対応と「泣き寝入り」の構図  以上のような状況に対し、乗客はまず苦情を乗務員やJR支社にぶつけたが、納得がいく回答はなかった。次に、地元新聞社へ投書がなされた。しかし地元マスコミは、鉄道の専門知識に欠けていて問題意識もなく、報道内容もJR当局の記者発表そのままであった。ダイヤ改正当日の記事も、八戸市の殺人事件報道で優先順位上削除されるなど、こうした事態の重要性が地元マスコミに全く理解されなかった。その後、続々と寄せられる苦情の投書にようやく記事を出したため、JR支社は回答の必要に迫られた。結局、「当分の間ご辛抱を」と回答を寄せたが、車両の改造など改善へのインセンティブは全く感じられない。特殊会社・JRに対しては、行政監察局(総務庁)へ改善を訴える方法もある。しかしこの地域の住民は、こうした方法を誰も周知しておらず、この件での相談は一件もなかったという。また、相談は当該地域住民が日時を特定した具体的不利益を被る必要があり、通常鉄道事業者の内部判断に委ねられている座席の配置や車両構造などの、専門知識への行政監察局(事務官)の十分な対応を期待することは現実的ではない。  地元自治体では、県の交通対策課レベルでも、交通(特に鉄道)の専門知識を持つ専門職員・専門家がおらず、権限の制約や専門知識の欠如で当事者能力に欠けている。そのため、JRなど事業者が提出したデータを無批判に鵜呑みに信じ切ってしまう。例えば、単線の奥羽本線を複線化すべく運動をしている青森県鉄道整備促進期成会(青森県庁主導)は、この新型電車導入計画を全面的に支持し、ダイヤ改正当日の導入記念イベントで乗客に無料でオレンジカードを配布したことなどは、典型的事例である。この運動の背景には、いまだに青森〜弘前(川部)間が単線で、列車増発や時間短縮・利便性向上のための等間隔ダイヤの実施が困難だからである。このような、県都と十万都市とが1時間以内の距離で単線でなのは、他に鳥取〜米子間ぐらいしかない。これは、先述のとおり青森鉄道管理局が成立せず、JRの現支社にとって北端の辺境地域なため、複線化など設備投資が後回しになったのである。また県のレベルでも、例えば今後在来線直行ミニ新幹線の建設や駅舎改築による駅ビル建設などの予定され利害関係があることから、JRを刺激せず良好な関係を保っておきたいとする判断が働いていると考えられる。その一方自治体は、新幹線建設や複線化などのインフラ改善の陳情・運動には、政治家の強いインセンティブもあり、きわめて熱心である。こうした背景により、交通運営方法などを含めた公共交通重視の総合交通政策不在の状況が生じ、道路交通の改善ばかりが進捗するため、マイカーへの転移を助長し鉄道離れに拍車がかかるという、自動車依存社会化が進展しているのである。  国労盛岡支部など一部の労働組合は、ロングシートへの不満が多いというアンケート調査結果を地元新聞に掲載している。しかし業界新聞は、少数のモニターによるロングシート賛成の意見を載せたり(運輸省東北運輸局)、全国一般向け雑誌「アエラ」(朝日新聞広告局)では、東北・仙台地区の 701系や新潟地区への直流用E127系( 701系同じくロングシート構造)の導入による効率化を、快挙と評する「大本営発表」記事を載せ、世論誘導を試みている。全国的に影響力を持つ鉄道(趣味)雑誌における記述内容も、車両技術的内容の解説が中心で、旅客の判断などを含め社会的正義観が希薄であり、本文中では今後のJRとの関係悪化を恐れ、非常に慎重な表現となっている。さらに、競争を挑むべき地元バス会社も、道路条件が悪く経営環境も悪化していて、「座れない」新型電車対抗した都市間高速バスの運行開始した事例はない。このように、北東北地域では公共交通が独占状態にあるため、JRは高級な車両を投入しなくても安泰としていられるのである。  さらに地方では、住民が苦情を発言する手段・機会に乏しく、泣き寝入りの状況にあった。しかし、疑問を投げ掛ける地元市民有志と鉄道愛好者が、この新型電車問題に関してシンポジウムを開催しようとする動きも生れている(1995年2月に予定)。このような動きが、今後どう展開していくか注目される。  4)解決策はあるのかー地方からの発言の重要性ー  上場を果たした特殊会社・JR東日本の、会社としての性格は、独占時代である戦前の行政機関としての鉄道省にさかのぼる。組織の出自は、事業者(現業機関)と行政機関の両方の部門と性格を兼ね備えていたものが、私鉄に対する監督行政部門を運輸省へ分離の上、公共企業体・日本国有鉄道の組織がほぼそのままの形で、特殊会社・旅客鉄道会社(JR)に引き継がれた。依然として地域的に強い独占力を握っていて、裁量の大きい行政官がJR幹部社員に変わっただけであり、そこで出される通達が旅客サービスに大きな影響を与えているにもかかわらず、たとえ諮意性があっても外部から十分に監視できないというのが現状である。確かに、国鉄改革以降JRは7年以上も運賃(基本賃率)改定を実施しておらず、内在する内部補助という経済的・経営的観点からすれば、赤字線区の効率化はやむを得ない側面もある。  今日、JRの行動を、表面的な分析だけで正当化しようとする論稿は少なくない(財部、1993;高木、1993;長坂、1994など)。これは、日本のジャーナリズムに典型的な代表取材や記者クラブ制、さらには経済的利得の獲得のみをねらった一部評論家・フリーライターなどにみられるような、取材上における社会正義観や主体性の欠如のはらむ問題性である。その結果、『週刊文春』問題(1994年夏)における不可解な決着を生み、特殊会社・JRへの正面からの意見表明がタブー視される傾向が加速され、原子力発電所への批判を電力会社に投げ掛けにくいのと同様な状況を呈している。しかし、批判が顕在化してないからといって、特殊会社の自主性尊重のあまり、何をやってもいいというものではない。例えば、JR四国の1000系気動車のような、ロングとクロスを交互に組み合わせた座席配置の車両を、なぜ導入できないのか。いまだに地元との関係で、国鉄時代の高圧的な「親方日の丸」的感覚が払拭されてないことは、関係者の指摘からも明らかである。機械化や近代化を「効率化」の論理だけで断行することで、先人の努力により積み重ねられてきた鉄道創業以来の伝統(鉄道らしさ)を、急速に改変し消滅させていく状況は、果たして妥当なことなのであろうか。我々は改めて問い直す必要がある。新たな時代における鉄道事業者と利用者との間の、新たなパートナーシップを構築するためにも、鉄道事業者の行動を制度的に注意深く監視していかなければならないのである。  謝辞  本稿を執筆するにあたって、弘前大学の宮城名誉教授・今井教授には格別のご指導を頂いた。また、取材の際にお世話になった関係各位に、深く感謝いたします。  文献 青木塊三(1957):「国鉄興隆時代ー木下運輸20年ー」日本交通協会. 伊東誠(1994):欧米都市鉄道の混雑状況に関する研究.土木学会40回年次学術講演会要旨集Y,794〜795. 岩本由輝(1994):「東北開発 120年」.刀水書房,199p. 大蔵省大臣官房調査部(1950):アメリカにおける公社の組織法.調査月報39-10, 交通統計協会(1992):「鉄道の旅客輸送ー主要幹線25年の軌跡」.交通統計協会,247p. 小林茂(199) :21世紀へ向けて鉄道の再開発を考える.鉄道ジャーナル341,48〜53. 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