十勝三股の価値は自然にだけで産業遺産としてはないのか

−環境省「ふれあい自然塾」構想を端緒とする地元論議とその方向性−

武田 泉

 1 はじめに
 北海道中央部に存在する大雪山国立公園は、わが国最大の面積(神奈川県とほぼ同じ)や原始性を誇る山岳自然公園である。十勝三股は、十勝側の上士幌町すなわち東大雪地域に位置し、歴史的に当初の公園計画で公園外となっていたものを、林豊洲(十勝毎日新聞の前身の新聞社社主)が田村剛ら国立公園調査委員会視察団に強力に働きかけた結果、国立公園指定地域の拡大(然別湖や扇が原展望台等)が実現したものである。この地域は、石狩岳や二ペソツ山などの2000M級の山々に囲まれた山岳奥地の小盆地であり、雄大な景観と良好な自然環境の中に立地していた。資源開発(収奪)型の林業や鉱山開発、鉄道建設で一時的に栄えた、典型的な北海道の林業開拓前線集落であったのである。三股は、かつての層雲峡、大函、朱鞠内、母子里、イトムカ等と並ぶ特徴的な集落で、最盛期には「終端の三股駅は全くの木材積み込み駅で、駅に続く集落はすべて木材の生産に従事する者であって、集落としても類の少ない形態である。」(加納一郎「随想・三股高原」)と言われた。しかしながら、鉄道の廃止、旭川方面へ抜けることのできる三国峠横断の国道273号線の整備で一気に衰退し、400戸1500人の大型森林集落は解体に至り、現在ではわずか2戸を残すに過ぎない。

 2 十勝三股集落の歩みー最盛期の森林軌道と急激な過疎化ー
 この十勝三股の最盛期は、第二次世界大戦後の増伐期であり、その際森林軌道が敷設されている(音更森林鉄道;1950〜58年)。これは当時の帯広営林局管内で、トムラウシの上川十勝森林鉄道と共に戦後敷設されたわけだが、将来の自動車化も予想する中での「繋ぎ」の意味合いも有する鉄道であった。国鉄士幌線十勝三股駅を囲むように二股に分かれた横の貯木場を基点に、十勝川本流沿いを岩間温泉近くの「御殿」と称された本流土場事務所まで8KM750Mを、5tディーゼル機関車3両(加藤製他)をはじめ、運材用貨車80両、木製貨車60両余りで構成され、貨車の台枠や連結器等の鋳物は今日まで現存する修理庫の炉で修理を行った。
 昭和戦前期の1939年には、国鉄士幌線が三股まで敷設、開通する。この鉄道は、明治期に太田竜太郎(熊本藩出身、当時の愛別村長(現上川町を含む))が国立公園設定および山林の保全の請願と同時に行われた「中央線鉄道(旭川〜北見・帯広間)」の系譜を引くもので、その後戦時中は軍事的に山岳部を繋ぐ目的も加味されることになった。
 三股国有林は、当初「昼なお暗い鬱蒼とした森林」とされ、林業資源としては枯渇することのない良好な資源と認識されていた。各種伐採事業の開始により林業が開始され、営林署の直営生産の開始、青山木工所、高谷木材、丸竹木材、坂本木材、等の業者が立地し、特に昭和29年をはじめ11,14年他の風倒木処理では一気に活況を呈した(上士幌町「地域宝探し会」による)。運材方法では、冬山造材(馬橇バチ曳き)と流送だったものが、森林軌道と国鉄によるものを経て、トラクター集材とトラック輸送へと引き継がれていった。
 巨大な三股貯木場の土場には、架線集材機や巻き上げ機の他、材木で作られた「桟橋」や土手(現存)他も使って、森林軌道から国鉄貨車へと積み替え作業が行われ、作業効率化のため国鉄の引込み線2本を取り囲むように、森林軌道のレールが二股に取り囲むように分かれてしかれていた。大量の木材の処理を目指したものである。集落には最盛期、小中学校、郵便局分室、日通、商店、飲み屋、診療所、山の神神社、等が存在した。特異な人口構成であり、最盛期には生産年齢の成人男子が多かったが、その後は一気に激減した(十勝毎日新聞連載「駅ー十勝三股」)。この集落の特殊性は、資源立地、期間限定という点にあり、鉄道廃止後の国鉄線のままでのバス代行輸送や撤退を前提とする郵便局分室(両者とも全国唯一の形態)にも現れていた。バス代行実施時の約束として鉄道施設が存置されたため、十勝三股駅用地は長期にわたって放置されることになった。こうした特殊な状況は、鉄道ライターの宮脇俊三や種村直樹等により全国的に有名になった。国鉄士幌線の前線の正式廃止後は国鉄清算事業団用地となったが、駅舎、駅名板、ホーム、ターンテーブル、給水塔等が残置されたままとなり、独特な「風情」をも醸し出すことにもなった。

 3、十勝三股における環境省「ふれあい自然塾」構想の経緯とその展開過程
 わが国の国立公園等の自然公園制度は用途地域指定のような地域指定主義であり、新大陸諸国で見られるような土地所有も伴った営造物主義ではない。このため、国有林や道有林という他人の土地に公用制限をかけて運営されていて、従来は権限が弱いものであった。そうした中、少しでも実効的権限を公園当局(旧厚生省)が確保すべく、せめて利用施設の中心となる集団施設地区だけでも公園当局が所有したいという願望を抱いた。
 大雪山の場合も、国有林から所轄換等の処置を求めた。この結果、大雪山国立公園では層雲峡、旭岳温泉、糠平については1970年代までこの集団施設地区として告示することができた(しかし白金温泉については戦前の御料林であったことが影響して厳しい指定地域は設定できず集団施設地区設定には至っていない)。環境庁としてはさらなる実効性の確保を狙って新たな集団施設地区を物色していて、一時は上川町の大雪湖周辺のエリアを集団施設地区とし、国民休暇村を整備することも検討されたりしていた。そうした中、公園内奥地まで延びていた国鉄士幌線が廃止され、十勝三股駅跡地が売却用の国鉄清算事業団用地となった。環境庁はこの用地の所轄換を希望し、集団施設地区として整備することを検討した。ここに十勝三股の環境省との実質的関連が生じる。環境庁側(あるいはナチュラリスト・自然保護団体側)にとって、駅跡等の産業遺産は自然としては無価値の「ガラクタ」でしかなく、廃墟として趣を持ちながら残されていた遺産を何の前触れもなくいきなりブルドーザーで破壊することに何ら躊躇することはなかった(正確には清算事業団側が更地にして所轄換したものである)。1994年9月14日のことである。上士幌町当局も反対はしなかったのである。
 その後更地には、いつしかルピナスが群生するようになり、2戸以外に居住しなくなり集落としての呈をなさなくなった三股には自然が帰っていき、ナチュラリストの自然観察の場として定着していった。それと同時に国道273号線は改良により通年開通するようになり、十勝から上川への通過点として2戸のうちの1戸はドライブイン・喫茶店として知られるようになっていた。
 その後環境庁は地球環境問題の高揚に伴い、国立公園の施設整備が公共事業として認められるようになり、比較的規模の大きい新たな政策メニューを創設した。その中に自然体験型の「ふれあい自然塾」が位置づけられた(他に「共生21プラン」「緑のダイヤモンド計画」「ウォーカーズパーク」「エコミュジアム整備事業」が存在)。この結果、長らく棚さらしになっていた十勝三股も3か年で20億円に及ぶ直轄予算を予定することなり、計画案が地元に提示されるに至った。過疎に悩む上士幌町としては国が予算を付けてくれるということでは願ってもないことであったが、住民サイド特に自然に興味を抱く筋では、反対を声高に唱える動きが巻き起こった。事業にあったては、地区内の「自然環境調査」(全331ページ)が行われたが、自然の項目についてはきわめて綿密・詳細な調査内容であったものの、人文については林業や地域の概況を含めわずか14ページに過ぎなかった。調査分担者には地元町立自然博物館の学芸員も深く関わっており、自然重視(及びその結果相対的に産業遺産軽視)の方向性に大きな影響を与えた。「ふれあい自然塾」構想は、当初リゾート開発ブームの影響もあって、ハコモノ中心の開発計画であったが、地元の反対の動きの中で次第に計画は縮小していったが、見切り発車の形で駅構内跡地がいきなり線路路盤の砂利を撤去し遊歩道化したり、歴史性や地域性を無視したログハウス風のあずま屋(一応「駅舎風」と称された)の建設が強行された。これに対して、地元の自然保護団体等が反対を表明し、悪評高い「あずま屋」の撤去を申し入れ、新聞ローカル記事として登場する。公共事業の経験に乏しい環境庁の住民参加の姿勢に乏しい姿勢が一気に露呈したのである。国道を来訪する三股への来訪者も、旧代行バス待合所には関心を示すものの、奥に入った位置にあるこの「あずま屋」には落書きもなく、全く関心の埒外にあるのである。
 環境省にとって、国立公園で重視されるべき対象とは自然環境のみで、人文資源については二の次で軽視している。このことは、環境省自然環境局職員の採用分野(造園・生物職中心)や、層雲峡ビジターセンターや田貫湖ふれあい自然塾(富士山麓、自然塾第一号)での展示内容を見ても明らかである(前者では大雪山に貢献した人物の活動やその軌跡、洞爺丸台風後の風倒木処理とその後の開発状況、後者では富士山麓での生活史、特にお茶生産の高距限界地という人文的特色が反映されていないこと)。さらには、三股の計画案ではかつての町割りを全く無視した代物であった。
 三股駅跡に隣接して、営林署施設の残骸がかろうじて存在していた。その中で森林鉄道修理庫の木造建築物は、この集落の痕跡、往時を偲ぶ最後の建造物という観を強く抱かせるものである。ティンバートラスの屋根で、建築学的に希少性を有すると言え、建築後半世紀を経過していることから文化庁の「登録文化財」としての要件も有するものである。当初「ふれあい自然塾」で計画されていた駐車場及び自然体験ハウス(ビジターセンター)計画が多少なりとも変更されたが、ここまで至るまでには北海道産業考古学会の保存要請がある。2000年4月、環境省西北海道地区事務所へ木造建築の保存を要請した結果である。しかし、未だ町並みや駅跡の一部復元や、地域独自のものを作ろうとする発想はない。環境本省担当官も自然以外の人文資源については眼中になく、「文化庁が取り組むべきこと」と逃げたり、アメリカの国立公園体系での取り扱いを指摘しても聞き入れようとはせず消極的対応に終始していた。
 上士幌町内では、国鉄士幌線跡はこの三股に限らず細長く続いていた。下手側の鉄道跡には特徴的はコンクリートアーチ橋が残され、これらについては景観的な興味や土木技術史的興味(主な論点はアメリカから導入した技術、骨材の現地調達、景観に配慮)から、町民や土木関係有志らによって「コンクリートアーチ橋保存会」が組織され、シンポジウム他により啓蒙活動が行われている。士幌線廃線跡については、三股駅跡は省みられなかったが、その他の箇所については線路の撤去作業の際、アーチ橋や幌加駅跡(ホームやレール)は残すことができた。しかしアーチ橋と三股とを関連付けることを、保存会関係者は極度に嫌っている。またナチュラリスト側は、自然に帰る過程にある三股では人工物建設は絶対反対、木を植えて森林に返すべきだ、ゾーニングした自然人文の棲み分け計画も拒否、という主張である(一旦壊してしまったものを復元した紛い物に何の価値があるのか、お前は開発主義者ではないかと、筆者は町内で催された意見交換会でナチュラリストに徹底批判されたものである)。さらには上士幌町の対応も、町長選時のしこりや各種団体の思惑、さらにはナチュラリストの人文資源への無理解、他が複雑に影響して混沌としている。その上、地域資源として分野を超えて総体としてどのように価値付けるかという視点が欠如しているのである。こうしたこともあり、「ふれあい自然塾」の展開については未だ先が見えない不透明な状況にある。

 4 十勝三股駅周辺整備計画についての提案事項
 ここで筆者が考える整備計画についての提案事項を述べる。
 1)計画地域内をゾーニング(地域区分)し、駅跡の中心部は「歴史景観ゾーン」(大規模な開発を行うのではなくかつて存在したものを理解する上で必要な最小限を復元する)に、周辺部は「自然復元ゾーン」(植樹等により徹底して自然の復元に努める)、その中間に「自然体験活動支援ゾーン」を設定する。但し現在駅跡の更地部分にも有数のルピナス群生がみられ、周辺でも湿原の部分で希少種(カラフトダイオウ、クロミサンザン等)の保存も優先させる。地域全体が好個な植生復元の実験地と位置付ける。
 2)十勝三股駅舎を元あった場所に復元させる。駅舎風の外観とし、内部も事務室、待合室という部屋割りを生かした自然体験活動拠点・休憩・レクチャールーム・集会室・研究施設として活用する。また駅前広場や駅前通りも含めた町割りの復元・保存を行う。このため支障する環境省策定の駐車場・自然体験ハウス計画を抜本的に変更する。
 3)残っている建物(集会所他)は活用し、ボランティアの簡易宿泊所や資料室とする。
 4)現行案のバリアフリー歩道や蛇行した木道には反対であり、計画変更を求める(わざわざ奥地の三股まで足を運ぶか、及び大雪湖畔の林野庁設置の「優々林」と目的が重複する)。
 5)鉄道駅の景観を最小限復元させる(ホーム、駅名板、腕木式信号機、電柱、給水塔、ターンテーブル;これらの遺物が全国的に希少となってきている)。
 6)木道の趣旨を変更の上、歴史景観ゾーンの通路とし、復元した桟橋や土手と繋ぎ、俯瞰ポイントとする。鉄道路盤をもう一度復元させ、一部はレールを引き修理庫へと繋ぎ、無動力もしくは太陽光トロッコ車を走行できるようにする(運営方法については美深町仁宇布の「トロッコ王国」が参考になる)。
 7)修理庫内部には、機関車をはじめ比較的大型の歴史資料(集落、林業、鉄道等、各種標識も含む)の展示を行う。
 8)上士幌町内に現在存在しない人文・歴史系資料館を建設し、各施設との間で内容的にも交流を積極化させ、エコフィールド博物館ネットワーク化を図る。同時にアメリカの国立公園の体系にあるような歴史遺産の保存例(鉄道の機関庫や由緒ある人物の生家他を参考に朽ち果てたものも展示アイテム)を参考に展開させる(この場合、事故時の管理責任の所在を明確化させる必要がある)。アーチ橋や幌加駅跡とのグリーンウエイ(長距離自然歩道・自転車道)の経路としても検討する。観光入り込み面で糠平温泉との関連付けを行う。
 9)また、インタープリター(解説者)も自然・人文双方を解説できるような育成プランの検討する。このため、「ふれあい自然塾」予算の一部は基金として積み立てる。

 5、おわりに
 以上、十勝三股についての整備の方針について筆者の考え方を提示した。この考え方について、誤解や偏見が見られ、正確に論旨が伝わらない部分が存在することについては、甚だ遺憾である。その背景には、自然のみ、土木遺産のみといったような縦割りの専門分野にのみ興味を抱き、地域的な全体像への関心に乏しい各位による意見が幅をきかしている状況が背景にあるからであろう。他にない地域独自の地域資源を十勝三股が所持しているといえよう。政策担当者は、一部からの強引な意見だけに捉われずに総合的視点により、来訪者をひきつけるような計画を策定すべきである。現状のようなどこにでもあるような環境省的な自然体験施設しか作れないのであれば、整備計画は即刻中止し着手前の状態に戻すべきである。

 なお本稿は、2000年9月23日に上士幌町糠平で開催された北海道産業考古学会フォーラムにおいて、「歴史遺産を残し計画を軌道修正すべき」として報告したレジュメを基に、加筆修正したものである。

 (たけだ いずみ 北海道教育大学岩見沢校)


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